1951年8月 前半を『人間』終刊号に発表
9月 全編を『中央公論文芸特集』に発表
「・・・車はとっくに六郷橋を越えて川崎の重工業地帯へ入っていた。この前の戦争の跡はまだ生々しくのこっていた。焼跡の骨のような鉄骨が夜の底で天に突き刺さっていた。両手をさしあげて何かを祈っていた。そのすぐ横の工場は、焼けた工場の骨や頭蓋などと何の関係もないかのように、徹夜で、生きていた、めらめらと朱色の焔を吐きながら。戦争による廃墟のど真中に立った工場が、再び戦争によって、しかも戦争のために、動いているとはどうして信じられよう。そして万一あの工場が戦争のために動いているとしたら、そこに働いている人々がどうして孤独でないといえようか。木垣はこの激しい対照を眺めながら、自分の気持ちの基調が生きた工場にはなく、死んだ工場の荒れ果てた風景にへばりついているように思った。・・・
川崎から横浜へ―人々の家はすでに眠っていたが、大工場はみな眼醒めていた。人も風景も、深く戦争の痕をとどめていたが、夜の中では早くも別の戦争が工場を動かしていた。
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