■ 荒井信一『日本の敗戦』1988年 岩波ブックレット昭和史8
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「・・・しかし、本当に戦争の影響が深刻になってきたのは、1944年春、2年生に進級してからである。そのころには高等学校の修業年限が3年から2年に短縮されていたが、翌年3月の卒業式に出席できたのは、40人のクラスメートのうち12〜13人にすぎず、残りは全部兵隊に言ったのである。
授業もなくなった。6月から卒業まで2年生全員が、神奈川県川崎の自動車工場に動員されたからである。動員先の寮の食事は、毎日茶殻入りの雑炊で、私たちはいつも腹をすかせていた。私の動員された川崎の自動車工場でも、厭戦気分がいつの間にか広まっていた。本工の不足を補うため、民間から徴用された工員と動員学徒が多く、腕も未熟であった。資材も不足していて生産が上がらず、勤労意欲も失われていた。そういう中で、日本の抗戦力に深刻な疑問を感じざるを得なかった。
われわれの仕事は、トラックの車輪を支える車軸を旋盤という機械で削ることであった。・・・あるときふと気がついて、旋盤についている金属プレートを見てびっくりした。プレートには生産国やメーカーが表示されていたが、その大部分は「メイド・イン・USA」「メイド・イン・ジャーマニー」であった。ドイツはともかくも同盟国であるが、アメリカ合衆国は敵国である。軍事産業の重要な一角を占める自動車産業が、戦争の相手国であるアメリカ製の工作機械なしには稼動できない事実は、戦争の前途に希望がなくなりつつあるときだけに身にしみた。
1944年の終わりごろから、空襲もしばしば見舞われるようになった。とくに1945年3月10日の東京大空襲は、対岸の川崎から手に取るように眺められた。工場で一緒に働いていた神田の女学生の中には、その日限りで姿を見せなくなった人が何人もいた。もう戦争の前途も絶望的なのではないのか、と思うようになったのもその頃からであった。」
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