ハルモニたちが
絵を描きはじめた!

 
 ハルモニたちのギャラリー
作品をごらんください
黄徳子 文叙和 李玉基 金花子 河徳龍 呉琴祚 朴順徳
金文善 孫連順 李鎔憲 スライドショー
ハルモニたちが絵を描くようになったわけ
 
 ふれあい館には、20余年におよぶ、識字学級活動があります。
 生活に追われ、文字の読み書きを学ぶ機会を奪われてきた、在日一世の人々の「せめて、名前、住所ぐらいは書けるようになりたい」という強い思いに押されて、川崎教会でうぶ声をあげた識字教室は、その後設立されたふれあい館に場所を移し、現在まで途切れることなくその活動はつづけられています。(週2回、火・金曜日)
 この間、学ぶ人の構成は、在日の韓国・朝鮮の人にとどまらず、さまざまな背景をもって渡日してきた、さまざまな国のひとびとへと変化し、日本語に対するニーズも変わって来ました。
 高齢に達した在日一世のハルモニ・ハラボジたちは、文字学習の効果はなかなかあがらないものの、ゆっくりとしたペースで文字とかかわりたいとの想いが強く、3年前の2004年4月、独自の識字教室『ウリハッキョ(私たちの学校)』をトラジ会の部屋に開きました。以来、ハルモニたちは、毎週1回火曜日に集まり、日本語学習を少しずつ進めながら、自らの生活史や今の暮らしへの想いを語り・綴ることに力を入れてきました。
 
 そんな中、昨年(2006年)の7月から月一回、絵を描くようになったのです。
それには、こんなきっかけがありました。
昨年7月、8月のカレンダーを作ることになりました。8月は、ウリハッキョがお休みになるし、ハルモニに関係のある日程が普段とは違い、なかなか覚えきれないので、カレンダーをつくって書きこむことにしました。カレンダーの上の部分がさびしいので、絵で飾ろうということになり、絵を描くことが始まったのです。
共同学習者のひとりが、誰でも絵が描けるようになる方式(この方式を考え出した人の名をとって、キミ子方式という)に出合い、この方式ならハルモニたちも絵を楽しく描けるのではないかと、その方式にしたがって、「絵」を始めました。
以来、ハルモニたちの「月に1回は描きたい」という意欲に押されて、そのペースは正確に守られ、気がつけば一人10点余の作品ができあがりました。
 
「初めて絵を描いて」 ハルモニたちの感想
 習字の筆は何度か使ったことはあっても、なにしろ、絵の具や絵筆を使うのは初めて、というのがほとんどのハルモニたちでした。絵を描くなんてことは、自分の暮らしとは全く無縁のことで、しかも、こんなに歳をとって、絵が自分の身近な物になるなんて、想像だにしなかったことです。当然、最初は「絵なんか、私に描けるわけないでしょ!」「できないですよ。絵筆なんか、使ったこと全然ないんですよ」と、しり込みするハルモニたちでした。それが、おそるおそる握った絵筆が3原色と白色だけで、沢山の美しい色を生み出し、下描きなど難しいことをしなくても、「絵」が描けていく。絵の具や絵筆は、自分を表現するのに、「文字」よりかなりハードルが低いことに気づいたハルモニたちは、「私にも絵が描ける」という喜びをエネルギーに、臆することなく描き続けてきました。
 それぞれに厳しかった人生だった分だけ、個性豊かで押しの強いハルモニたちです。描くたび毎に、気弱さを振り払い、ときに繊細に、しばしばおおらかに、自分らしさを発揮し、見るものを引き付けて止まない素敵な絵ができあがりました。
 彼女たちは、絵を描いた次の週は、描いた時の気持や感じたことを、みんなで話合い、自分が口にした言葉を文字に置き換えて、作文としました。初めて絵筆を握ったときの感想に、彼女たちの喜びと次ぎへの期待がしっかり書きとめられていて、読むものに感動を与えてくれます。
 ハルモニたちは、細い筆で書くのも、太い筆で描くのも、手が震えるといい、うまく描けなかったと、こぼしながらも、だんだん絵を描くことを楽しみ、自分の絵を他の人との比較で見ないで、「ああ、私の絵もいいじゃない!」という気分に変わってきているのがよくわかります。
 
ハルモニたちの作文】
 
   ★初めて絵を描いて
      河 徳龍
      金 文善  「はじめてぬった色です」
      文 叙和  「夏の思い出」
      李 玉基  「風船みたい」
      金 花子
   ★第2回「毛糸の帽子」を描いて
      河 徳龍
      金 文善  「毛糸の帽子をかきました」
      文 叙和  「えのぐのぼうし」
      李 玉基  
      金 花子  「私の夢は 絵を上手に描きたい」

   ★第3回「もやし」を描いて
      呉 琴祚  「もやしをかきました」
      金 花子  「たのしいお絵描き」
   ★第4回「空」を描いて
      金 文善
      呉 琴祚  「空の絵を描いて」
      黄 徳子  「お空の絵」
      金 花子  「空と雲のこと」
      朴 順徳
   ★第5回「ねぎ」を描いて
      金 文善  「ねぎの絵をかきました」
      朴 順徳  「ねぎの絵」
   ★第9回「大根」を描いて
      李 玉基
 
絵はだれにでもかける
 
 ハルモニたちは、こんな方式で描いています。
 ●絵の具は、赤・黄・青の三原色と白だけで描く。
  筆は大・中・小の3本を使う。
 ●描き初めの一点をきめたら、そこからとなりへとなりへと描いていく。
 ●初めから全体の構図を考えるのではなく、紙が足りなければ継ぎ足し、余れば切る。
 ●下描きはせず、いきなり筆で書く。描く一瞬に集中し、過去にはこだわらない。
 
この方式で描けば、だれにでも楽しく絵が描けます。この方式を考えた人の名をとって「キミコ方式」といいますが、この方式と出会った共同学習者のひとりが、この方式ならハルモニにも絵がかけると取り入れました。いまでは、ウリハッキョにかかわる人、みんなで絵をかく楽しさにはまっています。

 
 
作品展を見に行きました
 ハルモニたちが描いている絵の方式(キミ子方式)で運営されているアートスクールに行き、開催中の「作品展」を見ました。(2007年4月20日)
 ウリハッキョの学習者が揃って出かけ、絵の作品展を見るというのは、全く初めての経験でした。立派な作品の中に、ハルモニたちも描いたことのある、「ねぎ」や「苺」や「かぶ」などもあって、作品のいくつかを身近に感じながら、会話も弾んで楽しいひとときでした。
 展示されていた作品群の中に、ハルモニ一人一人にとって好みの作品があったことが、その後書いた感想文にしっかりと書かれていて、絵に対してはっきり自己表示をするハルモニに、今までとは違ったものを見た想いでした。
 
     資料1
     金 花子  「作品展をみてきました」
     黄 徳子  「作品」
     朴 順徳  「絵の作品展」
     呉 琴祚  「もやしの絵をみてもらいたいです」
 
ハルモニたちの作文と絵の作品展』をやりました
 
気が付くと、ハルモニたちの描いた絵は10作品になっていました。これまで書き綴っていた、いくつかの作文とともに、ハルモニたちの暮らしや想いに常に関心を寄せてくださっている周りの人たちに、これらの絵をぜひ、みていただきたいと、「ハルモニたちの作文と絵の作品展」を開きました。
 いつも日本語学習をしている場所を会場にしました。ハルモニたちは自分の作品を他人に見てもらうということにためらいを見せながらも、いつもの学習の場が90余点の作品で「美術館展みたいになった」と感じながら、会場当番という初めての経験もして、多くの来場者と言葉を交わし、充実したときをもつことができました。
 
   ★金 文善  「さく品てん」
    呉 琴祚  「夜なべで はなしがあいました」
    文 叙和  「胸があつくなった作品展」
    李 玉基  「作品展を見て」
    金 花子  「私達の作品展」
    黄 徳子  「ウリハッキョ」
    朴 順徳  「作文と絵の作品展」
    朴 春秀  「さくぶんとえの作品展」
 
次ぎのステップに向かって
 ウリハッキョの作品展を経験したハルモニたちは、自分の考えをみんなの中で積極的に発表するようになり、作文も自信をもって書くようになり、と大きな変化をみせています。作品展を見て、
ウリハッキョ生になりたいと申し出てきた人もいて、仲間も増えました。
 絵は、第11回の作品「スイカ」を描きました。
   
   ★第11回「スイカ」を描いて
 
      金 文善
      呉 琴祚  「私のすいか」
      文 叙和  「すいかの絵を描いて」
      李 玉基  「私のすいか」
      金 花子
      黄 徳子  「夏のすいか」
      朴 春秀  「すいか」
      鄭 順玉  
      李 鎔憲  
      高島マリイ  「ぼうしのえ」
 

ハルモニたちが自分の思いを託す作文
 
 ハルモニたちは、こんなふうにして作文を書いています
 
 在日一世のハルモニ・ハラボジたちは、長く日本に住み、日本語を聞いたり、話したりするのは、なに不自由なくできます。しかし、母国でも渡日後も文字を学ぶ機会から遠ざけられてきたハルモニたちは読んだり書いたりすることができないのです。そのことによって受けた不利益、差別は数限りなくあります。役所からの書類が来るたびに読める人を頼らなくてはならない、子どもの学校のお知らせの内容も分らない、一人で外出しようにも駅の名前が読めない、商品についている説明書が読めない、結婚式に出席したくても受付で名前を書けないから出ない、給料を受け取るとき菓子折りを用意していつも名前を代筆してもらう等々。文字の読み書きができないことに加えて朝鮮人である、ハルモニたちが味わった悔しさ、なさけなさは、文字が読めて当然の世界に育ったものにとっては、とうてい想像の及ぶところではありません。

 「せめて、自分の名前と住所くらいは書けるようになりたい」というハルモニ・ハラボジの熱意に押されて識字教室が誕生しました。
 しかし、「せめて、60代で始めてれば、もう少しは身についたかもしれない」と、多くのハルモニが嘆くように、彼女らは70代になって体のあちこちに故障が出るまで働き、働けなくなってやっと自分のために時間を割けるようになるのです。文字学習に向いている年齢とはいえません。覚えたさきから、文字や漢字や「てにをはの使い方」や濁点のつけかたなどは、記憶の網からこぼれていくのです。
 漢字を覚えることや、正しい表記に神経を使うのではなく、週に一度集まって、これまでの暮らしや今抱えている問題などを話し合い、正しい表記でなくとも漢字を使わなくとも、とにかく話し合ったことを書き留めることで、みんなが少しでも気持の上で元気になれる、そんな識字教室がいいということで、「ウリハッキョ(私たちの学校)」が、生まれました。
 
 2004年4月に発足したウリハッキョ。すでに丸3年が過ぎました。その間、ハルモニたちと共同学習者は、いくつかのテーマについて学び、作文にまとめました。
 
  ウリハッキョでの学習の進め方
・ 共同学習者が用意した資料を読み、内容を理解する。
・ 資料が理解できたうえで、テーマについて各人の意見・考えを話す。
・ 他人の意見や考えをよく聞き、他人の考えをしるために質問をしたりする。
・ テーマにかんして発言した自分の言葉や、他人の考えなども取り入れながら、テーマについて、作文をかく。
・ できあがった作文を皆の前で発表し、感想を述べ合う。
 
 このやり方できちんと学習を進めることができた回数は、多くはないのですが、それでも、このような方式で学ぶようになって、ハルモニたちは少しずつかわってきました。
 人前で自分の考えをまとめて話せるようになり、何より仲間の話に耳を傾けられるようになってきました。作文を書くときも、共同学習者に頼らず自分の言葉で書いたものこそが、人の心を捉えることを実感しはじめました。
 そして、共同学習者はハルモニたちとの話合いの輪にいることで、彼女たちの人生経験から生まれてきたさまざまな知恵を授かり、その現代的な意味を考えさせられるのです。そして、何よりも、あんなに厳しかった人生の中で彼女たちが失わなかった、人としての優しさや心遣 いの深さなどに触れることができ、ともに学ぶことの素晴らしさを体験するのです。

 
夜なべ」(習字)
 朝日新聞(夕刊)に載った、五木寛之の「かあさんは……」(資料 1)を読む。
長く日本にいるハルモニたちは、文の意味がよくわかり、「夜なべが、なんの鍋かだって。
まったく、しようがないね。」と笑っている。戦後日本に来た、比較的若いグループに属する2〜3人のハルモニ(?)たちは、「夜なべ」という言葉を知らなかったが、現代の若者と違って夜なべの経験はある。
「かあさんの歌」を1番から3番まで歌う。
歌詞にでてくる「あかぎれ」で盛り上がる。韓国での子ども時代の話をたくさんたくさんきかせてもらった。「夜なべ」という言葉をいれて、みんなで短い文をつくってみようということになったが、夜なべを語るときには昔のことになってしまうというのが、「夜なべ」いう言葉の市民権が現在、いかに希薄であるかを示している証拠だと思った。それぞれが作った短い文を習字に書く。習字が完成するころには、「夜なべ」が若いハルモニの口からも自然にでてくるようになって……。
 
    資料1
    金 文善
    呉 琴祚
    文 叙和
    黄 徳子
    金 花子
 
字をしっかりおぼえたら」(習字)
    金 文善
    河 ヒョンピル
    朴 小先
 
映画「おばあちゃんの家」を見て
    河 ヒョンピル
    金 文善
 
「苦労ばなし」
    金 文善
    河 ヒョンピル
 
韓国好きなら歴史も知って」(資料 2)
    資料2
    河 ヒョンピル 「ヨン様ブーム、私には分りません」
 
米一粒こぼし祖父がパシッ」(資料 3)
    資料3
    金 文善   「もったないもの」
    河 ヒョンピル 「もったいない」
    黄 徳子   「もったいない」
 
韓国・小鹿島 ハンセン病裁判」(資料 4)
 ウリハッキョに集う者たちは、社会から疎外され、不当な暮らしを強いられている人々に対して、無関心ではいられない。
韓国の小鹿島の「国立ソロクト病院」(元ハンセン病療養所)に暮らす、115名の方が、日本政府を相手に裁判をおこしていることを知り、それはどういうことなのか、そもそもハンセン病とはどんな病気なのかを学んで、裁判の傍聴に行った。
裁判ではソロクトからいらした回復者の証言を聞き、裁判とはどんなものかも経験した。
事前学習も含め、裁判傍聴後の話合いは、きれいごとでは済まない、本音を吐き出しての話しとなった。この病気にたいする偏見は、体に染み付いていて、理性では用意に克服できないものであることをハルモニは、本当に申し訳ないと打ち明ける。それは、ハルモニ一人ではないことを共同学習者も確認することとなった。
 
    資料4
    河 ヒョンピル  「東京地方裁判所へ行って」
    金 花子     「ハンセン病」
 
戦争が終わって60年
 戦後60年、あらためて戦争について考えてみた。用意した戦争の詩をゆっくり読むより先に、多くの体験が語られ、その後の作文書きでは今まで語られることのなかった体験なども出てきて、それぞれが真剣に作文用紙に向かった。

    朴 斗来
    金 文善    「戦争が終わってから」(T〜V)
             「沼津時代のこと」
    河 ヒョンピル 「戦争」
             「戦争中のこと」(@A)
    文 叙和    「戦争の時」(1,2)
 
冷蔵庫がなかったとき」(資料5)
 長い夏休みが終わって、ウリハッキョ再開の日は、朝からとても暑かった。こんなテーマで話し合ってみたらどうかと、急きょ、資料を用意した。
    何気なく持ち出したテーマであったが、話が盛り上がって、中身の濃い文ができあがった。
    ハルモニたちが、口を揃えて話したことは、
・ 昔は、食べものを残すほど作らなかったので、冷蔵庫など必要なかった。 
・ 果物など、そんなに冷たくしなくても食べる少し前に水をで冷やせば、充分美味しかった。
    余分に作っては、なんでもかんでも冷蔵庫に入れ、夏場は冷たく冷たくしないと気がすまなくなってしまった、私たちの今の暮らしについて、ちょっと立ち止まって考え直してみてはどうかとハルモニから指摘されたおもいだった。
    資料5
    金 文善  「たべものを くさらせないように」
    文 叙和  「昔、冷蔵庫がなかった時」
    李 玉基  「今と昔の生活」
    黄 徳子  「すいとん」
    金 花子  「昔、暑いときの食べ物」
 
識字にたいする想い
    金 文善   (2005年)
            (2006年2月21日)
    河 ヒョンピル (2005年10月18日)
    黄 徳子  「勉強のこと」(2005年10月18日)
    李 玉基  「今日からウリハッキョの生徒」(2006年7月4日)
    金 花子  「全国識字経験交流会」
 
ウリハッキョ2006年度を終わって」(資料 6)
    資料6  
    金 文善  「はじめて えをかいて」
    文 叙和  「私の思ったこと」(NO.1〜NO.2)
    李 玉基  「劣等感をのりこえて学ぶ」
    金 花子  「2006年度の印象」((1)(2))
    李 鎔憲  「ウリハッキョにきたわけ」
 
★ 「釜山旅行」(2004年度)

★ 「済州島旅行」(2005年度)

★ 「沖縄旅行」(2006年度)

★「おりおりの心」(ハルモニたちの随筆)


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