史 花順(サ ハスン)
 
【 二つの戦争 】
 史花順さんは一九三五年に中国で生まれました。中国で生まれたのはお父さんが貿易商を営んでおり、中国と韓国を行ったりきたりしていたからです。両親と、史花順さんと妹の四人での暮しは、お父さんの事業の成功のおかげで比較的裕福なものでした。しかし戦争がその生活を、大きく変えることになりました。
 「日本の戦争は韓国で経験したのよ。まだ私はそんなに大きくなかったから。工場に行けるだけ大きくなかったから。中国で生まれて、日本の戦争の時は、子供は大抵もう田舎に疎開させなくちゃだめな時代だったの。その時私がお母さんの姉さんの家に紹介された。そこで大きくなったの。
 日本の戦争の時は訓練がすごかったのね。それとやっぱし食べ物がなかったのがいちばんかな。全部軍人にもっていかれちゃうから。ほんとにみんな栄養失調寸前だったよ。食べ物一切与えなかったからね。自分で百姓やったのに、全部持っていかれちゃうから。何にも、着るものも。」
 戦争中は田舎に疎開していた史花順さんでしたが、戦争が終わった後は母親が迎えに来てくれ、ソウルに移り住むことになりました。しかしまたすぐに二つ目の戦争、朝鮮戦争が起きました。
 「お母さんはソウルに来てたのよ。それで生活が落ちついて私を迎えにきた。かなり大きくなってからきたから。それからまた少したって朝鮮動乱だよ。その時(一九五〇年六月二十五日)私は家で寝てたのね。ヨンドンの国会議事堂の近いところに私の家があったの。そしたら人が、北朝鮮から戦車が入ってきてね。何だこの音はガラガラガラガラ、それで鉄砲玉がンバンバンバンって、大砲打つ音がしたり、もう恐くて恐くて布団かぶってね。
 だから私はもうほんとに年中逃げ回るような生活だったよ。もう次々歩いたよ。同じ家にはいられなかった。一番最初はおばあさんの家へ行ったんだけどそこが焼かれたの。自分の家が焼かれると思ったのに行ったところが焼かれた。だけど私の家に帰ってきたら他の人がもう住みついていて、またそこにもいられなくなった。」
 ソウルでの生活に危険を感じた史花順さんの家族は戦火が届いていない南の町、プサンに逃げることにしました。
 「それでまた戦争が始まるから今度はプサンに来たの。トラックで一晩中走って、みんな布団をかぶってね。ソウルにいたらまた危ない目にあうから。同じ韓国でもプサンは戦争してないから。北朝鮮の人たちがプサンまでは来なかった。トラックっていうのもやっぱし自分たちがチャーターするわけよ。金持ちだけがチャーターできた。そうじゃない人はそれができないから、結局居残るようになって、誰もが逃げられたわけじゃないよ。」
 
【 プサンでの暮し 】
 史花順さん一家は、避難先のプサンでも、なんとか住む家も食料も調達できましが、周りの人たちも同じようにというわけにはいきませんでした。当時のプサンでは水不足や食料不足などが深刻な問題となっていたため、そこでの生活も決して楽なものではありませんでした。
 「ソウルとプサンはずいぶんと違ってたね。プサンは高台が多かったから。それで何が戦争かって言ったらね、プサンは水の戦争。結局ソウルからみんな非難したら水が足りないのよ。海辺のところだから水があんまりでないのよね。よく井戸がところどころ掘ってあるのに、もう水が足りないわけよ。そうすると夜中にそれを盗みに行く人がいて、塀を登って。そしたらもうふたをして鍵をかけるようになったのよ。それでその水をまた売りに歩くの、バケツにいれて一杯いくらで。凄まじいのはあのお風呂から流れたお湯があるじゃん、きったないお風呂。そこでみんな立って洗濯したりね、そういうこともあったよ。本当に戦争ってやだ。あのね、学校の床までも折ってね、燃やしてご飯炊いたり。学校に避難してるのに、学校の床がないんだよ、床が。もうそれが戦争なの。人間の戦争、水と食べ物と。プサンの人が『おめぇら来る時水ぐらいもって避難してこい』って。そうやって戦争が起こってる。それで『避難民、避難民』って言って馬鹿にしてね。だからうちはほとんど水買って飲んでたの。」
 
【 戦争の記憶 】
 このように史花順さん一家は戦争中もなんとか生活することができました。しかしそのなかで見た戦争のすさまじい光景は、今でも史花順さんの記憶に残っています。
 「うちのお母さんのいとこの旦那さんは子供が四人もいるのに、青年団の会長さんだったの、朝鮮動乱で一番先に殺された。奥さんは洗濯石けんつくる工場やってたの。それで奥さん途方にくれて、おっぱい飲む子供がいたけど、栄養失調でね。私みたけど、毛がみんなたってるの。お乳は出ないの、食べないから。(栄養失調等で亡くなった方は)いっぱいいるよ。それこそ数えきれないよ。もうそこらに死体が転がってたよ。誰が誰か分からない。それで結局ウジが湧いたりするから、年寄りをみんな集めて、穴蔵をこう細長く掘らすのね。それをみんなスコップですくって石油をまいてそこで燃やすんだよ。でそれを女、年寄りがかくして、そういう墓がいっぱい。そこら中鉄砲玉があたって死んでるの。もう毎日、夏だから。たまには馬も死んでそこらに転がってる。それでね北鮮の兵がね入ってきて、南の兵を捕まえるじゃん。みんなつかまって、首に縄をかけられて、捕虜だよね。それで、みんな私たちにみせるためにね、引っ張って歩くのよ。みんなにね、お前たちも俺に逆らったらこうなるんだぞっていうことを、見せつけるために。それで結局は砂袋いっぱい積み上げたところにおいて、鉄砲で撃って。それで今度は南がまた来て北朝鮮の残ったやつ捕まえておんなじことする。だからもうほんとに私はどっちがいいと言えないよ。誰がやりたくてそんなことやる人がいる。戦争はめちゃくちゃ。だからわたしは戦争は嫌い。私はそれを見てきた。ほんとにつらかった、子供ながらに。だから戦争は絶対に反対。」
 
【 来日の経緯 】
 お母さんと史花順さんと妹の三人は、朝鮮戦争がどんどん激しくなっていくのを感じて、当時父親の会社の事務所があった日本に行くことにしました。
 「朝鮮動乱の最中ちょっと一時休止になった時に、父が日本で貿易商やってたから、母と私と妹で韓国から日本に来たのよ。旅行者として入ったのだけど、戦争やってた中だからうちの母が一人でも日本に置いていきたいって、巻き込ませたくないってね。」
 こうして史花順さんは結婚するまでの数年間を東京で暮らすことになりました。またその間に都内で何度かの引越しも経験しました。その間、差別で苦しんだりといった思い出はあまりなく、普段の近所の人たちとの付き合いが、思い出として残っています。
 「妹と一緒にいつもうちの中で遊んだりしてたね。別に外行って遊んだりそういうことはやってない。昔私が来た時は、券をもってうどんだのパンだのを取り替える時期だった。今みたいにお米だって自由に買えないし。このぐらいの紙でパンも買えるしうどんも買えるし。それでお米も配給の通帳があったの。だから私なんかは通帳がないから闇米買わなきゃ食えない。そうだったよ。それで四谷に引っ越した時は、はじめ近所の叔母さんが一生懸命(日本語を)教えるんだ。『これ長ネギ』、『これ何』ってね。それで私の言葉を朝鮮語も教えろって言って、これ『ネギ』って言うと朝鮮語で『パー』って言って習いっこしたりね。けっこう面白かったね。それであの時、私はPX(駐屯地売店)の券持ってたの。外人だったから。それで日本はお砂糖が買えない。そんでうちでPXの券をもってたために、日本人に随分買ってあげたから、すごい喜ばれた。いろんなものが配給で何もない時分。うちは外国人だから、外国人はPXに入れる時分があったの、昔。それは全部アメリカの品物で新宿にあったの。やたらと買えたわけじゃなかったけど。
 それで今度は代々木に引っ越してきた時も、近所の人が結構優しくしてくれた。私は外に出て子供たちと遊んだりしたことがないからあまりわかんないけど。近所のおばさんが洗濯してくれたり、まぁそれはただじゃないだろうけど、うちお母さんが具合がよくないから。頼んで洗濯してもらったり、アイロンかけてもらったりやったらしいよ。」
 
【 結婚を機に川崎へ 】
 史花順さんは一九歳で親の決めた一六歳年上の韓国人男性と結婚しました。そしてそれを機に川崎に引っ越してきました。結婚の背景には、史花順さんが観光ビザで入国したこと、また母親が韓国に帰国したいと考えており、史花順さん一人を残していくことを心配したことなどがその理由としてあったようです。
 「代々木から一九歳で川崎に嫁に来たの。一人で置いていけないっていうのがあったんじゃないの。結局まだ戦争も終わってないから。また戦争に巻き込まれたら可哀想だから。ここに置いていけば大丈夫っていう。だから年が違っても大人しい人だっていうんで。
 それで二〇歳で子供生んだの。で、うちの息子がいま五一歳、もう一人が四二歳。で旦那が一〇年前に亡くなったの。うちのお父さんはとび職みたいのだけども肝臓悪くして。私と年はうんとはなれてたの。うちの親父(夫)はむかし日本の人に無理やり連れられて。一番最初につれてきた時は鉄砲玉つくる会社にいれられたの。中学校の時無理やり警備隊につれてこられたの、船に乗せられて。それでうちの戦争が始まった時シベリアにつれられて、その時に鉄砲玉があたって輸血したのが肝硬変の輸血をもらって、それが年取ってからおなかに水がたまって。肝臓は痛いっていうかかったるいのよね。全然働かないから最初は怠け病なのかと思ったよ。」
 
【 溶接工の仕事 】
 結婚前までの安定した暮しとはちがい、結婚・出産後は史花順さんも仕事に出なければなりませんでした。しかも旦那さんの体調が悪化してからは、史花順さんが一家の家計を支える役割を担うことになりました。史花順さんは偶然にも自宅近くの溶接工場で働くことができ、そこで家族のために朝から晩まで精を出しました。
 「(仕事は)車の溶接。昭和三七年(一九六二年)から勤めたの。六〇人ぐらい男の人がいたよ。近所の工場だったんだけど、私が内職してたら、そんなんじゃいくらも儲からないだろって、うちの会社きて掃除でもやってくれないかって。簡単な気持ちで私行ったのよ。でも行ったらかんなもったり。溶接やる男の人が怠け者でしょっちゅう休むんだよ。だから私が真似事でやってたら溶接できるようになっちゃったんだよ。会社入って三年目からはずっと溶接やってたよ。反対に私が男を使ってたよ。やめるまでずっと溶接。朝八時から五時半まで。そんで残業があるの。あの当時はすごい残業があったの。家が近かったからお昼休みにご飯の支度して。だから、日当よりも残業代の方が多い時もあったよ。だって二人が大学いっしょに行ったから。うちの大きいのが浪人したために一緒にならないと思ってたんだけど二浪しちゃったから。旦那さんは弱ってるし。だから私は結構働いたよ。息子二人をアルバイトさせたりそういうことは私やらない。あの時はなんぼでも仕事があったから。」
 休みもなく肉体的にもつらい仕事でしたが、勤め先の社長の理解があったおかげで、史花順さんは家庭と仕事をなんとか両立させることができました。
 「休みはなかったよ。忙しくて日曜日もでたし。子ども達は親父(夫)がいるから、みてくれてたよ。家が近かったからね。なんかあるとすぐに家に行ったよ。子どもも小遣いくれとか鍵くれって工場来てたよ。そうゆう約束で入ったから、会社には。私は子どもがいるからっていったら、社長は面倒見ながらやりなさいって。洗濯も雨が降ったら取り込みにいきなさいって。すごいよかったよ。会社の娘さんが私と一つしか違わなくて子宮癌で亡くなったのよね、だから私を娘のように可愛がってくれたのよ。すごく良い人だったよ。みんながうらやむぐらい。つらいことはなんぼもあったよ。だけどやっぱし自分の生活があるから我慢して我慢して。」
 
【 子育て 】
 史花順さんは、教育が一番大切だと考え、二人の息子さんの教育には力を入れました。また息子さんたちには、日本社会で成功して欲しいという考えからか、民族名をつけることもしなければ、民族学校に通わせようともしませんでした。
 「ほかの人は日本の名前と韓国の名前二つあったけどうちはそんなことはなかった。名前(性)が「南宮」って言うし、そのまま使ってた。うちはそのまんまの字でそのまんま。絶対に名前も隠したりそういうことはやったことがない。うちの孫もそうだよ。呼ぶ時は韓国語の時もあるし、日本語(読み)で呼ぶ時もあるし。どっちでも返事するから。
 いじめは良くあるって言うけど、うちはそんなことはなかった。学校に呼び出されたこともなけりゃ、まあ子供がどう思ってるのかは知らないけど。でもね一回うちの下の子が夜帰ってこなかったことがあって。それでなんか変だなって思って、友達のうちを探したりなんかしたけど。その当時は、親が通信簿もらう時代だったのよ。子供がごまかさないように。そしたら先生が『いやー昨日息子さんからすごく相談されましたよ』って。それで『なんて言ってました』って聞いたら、『俺は韓国人なんだけど、韓国人だからみんなが仲良くしてくれるのか』それを悩んでたって。あの子ギターができるのよね、それで運動もできるから結構人気者だったのよ。別にいじめられたわけじゃないんだけど、自分が韓国人だからみんなが仲良くしてくれるんじゃないかって、心配したのよね。私に対していじめられたとかいったことはなくて、それだけ。
 勉強があるのとないのとは全然違うからとにかく学校には行かせたかった。自分は学校に行ってないから子供は絶対上の学校までやろうと思って。大学は下の子が中央大学、お兄ちゃんは自分の国の文化を学びたいってソウル大学に浪人して行ったの。でその後YMCAに入ったの。でもうちの親父さんは反対したの。なぜかっていうとあの時あまり朝鮮がよくなかったじゃない。そんな危ないところいくんじゃないって。私がいいって、私の意見でやらした。教会でも応援してくれたり。自分の国を知ることはいいことだって、それで決心したの。」
 一流の大学に入り社会に出た二人の息子さん達は、史花順さんの自慢です。
 「みんなに言われるけどね、素直に上手に育ったし一回もぐれたことがない。よく反発したりするっていうじゃん、うちそういったことは一切ない。それでうち主人がすごい厳しい人だったから。それで案外年とってから子供ができたから、子供を家宝ものにかわいがって育てるけど、兵隊の生活をした人だったからすごい厳しかったの。だから一回もぐれたこともないし、子供のために泣いたこともないし。こどもも親ができないと思うから一所懸命やったせいか、勉強ができなくて苦労したっていうこともないし。結構上へ上へ二人とも行ってくれたから。」
 
【 外国人登録証 】
 史花順さんはこれまでの川崎での暮らしの中で数え切れないほどの苦労を乗り越えてきましたが、その中でも特に外国人登録の更新には苦労しました。今では特別永住権があるのでその必要はありませんが、それまでには大変な思いをしました。
 「もーほんとに私はそれには泣かされたよ。今は一切それはないけど、当時は横浜に三年に一回ずつ行って、お金も払って、なんで日本に住んでるのか、どうして来たのかも、いろいろ書いて、それをたくさんもって行ってやってたけど。あの公紋のついた、はんこが押したやつ、あのこういう白い紙があるからそれを持ってりゃもう大丈夫だよ。私はね最初ずっと登録の更新に行ってた。それで役所にその税金払った紙を持って行ったら、あの人はいい人だったんだろうね、おばあさんだったのその時。『あなたはねこんなに立派に税金を払ってるし、長年こうやってね同じ会社でねこれだけやってるなら永住権手続きすればすぐ出るよ』って。『手続きしな、こんなに面倒くさいことやらないで』って。『私何回も手続きしたけどできなかったから諦めてたのよ』って言ったら、『立派にできるからやりなさい』って。それでやったらすぐできた。その時はもう息子が全部大学行ってたから全部書けるから息子が全部やってくれた。
 だけども最初はほんとに私ねすごく泣いたよ。もう日本の言葉はできないし、手続きしにいくたびすごく泣いた。意味もわからないし、何回もそれをもって行ったり来たりしてね。子供はまだ小さくてそれをおぶったりつれたりしてね。もう日本に来てからの苦労は、それがすごい苦労だったね。この書類が足りないから、ポーンと投げ出してね。それが外人で洒落た人がくると、なんとかかんとかお世辞を使ってよくやってくれるけどね、わたしみたいな貧乏人で子連れでよ、字が読めない書けないったらポコンて投げて、まるでゴミくずでも投げ捨てるようにね。もう一回私あんまり悔しいからね、教会の牧師さんに相談に行ったの。そうしたら『よっしゃ、私がいってやる』っていってね。もうすぐできたよ。それからは、私が行くとすごーくやらかくなった。ああいうのをえこひいきっていうのかな。」
 
【 現在の生活 】
 現在の史花順さんは、自慢の息子さんたちも家を出たので、一人で暮らしています。仕事も引退しました。そんな史花順さんにとって、現在調理ボランティアとして関わっている「トラヂの会」は元気の源の一つになっています。
 「いまはようやく余裕ができて、教会の牧師さんがこういうところ(「トラヂの会」)があるから、そこで調理のボランティアしてくれないかっていうからいいですよって。私もすごいがっかりしてたの。会社に毎日行ってたのが急に行かれなくなったからまるで病人みたいになっちゃったのよね。うちの子どもたちは言うの、『お母さんいままでさんざん働いたんだから何もボランティアしなくてもいいんじゃないの、うちでぷらぷらしてたら』って。だけど動けるうちはこうしていたいの。いずれ年取ったら動けなくなるんだから。」
 
【 お話を聞き終えて 】
 史花順さんのお話をお聞きして、私がまず素朴に思ったことは、「自分がこれまで思っていた、いわゆる『在日一世』と呼ばれる人たちのお話とは少し雰囲気がちがうかな」ということでした。当然これは私の知識不足、勉強不足も影響しています。ただ改めて、十人いらっしゃれば十人の人生があるという、当たり前のことを痛感しました。
 またそれと同時に、史花順さんが大きな時代の変化の中で、多くの苦労を、家族のために、また自分のために、たくましく乗り越えられてきた姿にただ圧倒されました。
 この史花順さんのお話から、私たちが学び取れることは、決して一つではなく、たくさんあると思います。みなさんは何をどのように感じられましたでしょうか。
 
(聞き手/文 横山 順一)
 
【 註 】
この文章は、平成十八(二〇〇六)年八月にかわさきのハルモニ、ハラボヂと結ぶ二〇〇〇人ネットワークの主催で行なわれた、聞き書き事業でのインタビューをもとに書かれたものです。