|
【 文字のこと・学校のこと 】
ハルモニに文字のこと、学校のことを尋ねると、共通した当時の社会通念が語られます。当時、朝鮮では女子が文字を習うなどの教育を受けると、嫁いだ先で実家に手紙を書くばかりになるから受けさせなくてよい、受けさせるべきではない、という考え方です。その先にひとりひとりの物語があります。徐類順さんも、この時代的な背景を指摘します。さらに続けて、「それでもね、やりたい人は駄目って言われても隠れてでも何しても学んだんだよね。うちはお父さんがいなかったというのもあったと思うけど、二歳上のお兄さんが、自分が学校へ行くでしょ、帰ってきたら習ってきたことを私に教えてくれようとしたのね。『これからは女も勉強できなきゃ困るんだから』って。でも、夜は眠いし。疲れてるから、眠りたいじゃない。それはずいぶん言われたけど・・・。それだけだよ、お兄さんが私にきつく言ったことは。その時、一生懸命やればね。私がばかだった。今考えたら、その時やれば、頭に少し入ったかもしれないよ。」
徐類順さんは七十歳を過ぎてから、ふれあい館で開かれている識字学級に通いはじめましたが、目の病気を患い、途中で断念せざるを得ませんでした。
「私はね、もう目から涙が出てしかたがないから、字を習えないんだけれど、もし、字を習えたらね、教会の本を読みたいの。うちはずっとカトリックです。」
終始、柔和にお話をされる徐類順さんが、最後のくだりに決意表明にも似た凛とした響きを込めます。
徐類順さんの家では、徐類順さんが知る限り、祖父母の代からカトリックで、おばあさんは常にロザリオ(十字架)を身に着けていました。日本に渡る際の携行品に、衣類や生活道具はほとんどありませんでしたが、お母さんのロザリオはちゃんとありました。
「五反田に来たら、教会なんて行ってられないでしょう。それでも一年に二回か三回か、お母さんがどうしても教会に行きたーい気持ちになるのね。お母さんも字が分からないから電車とか、ひとりでは乗れないからね、お兄さんに『教会、連れて行ってー、連れて行ってー』って言ってね。たまに連れて行ってもらったの。大森の教会。神父様のお話聞いたり、日曜日に行かれるわけじゃないから、ただ教会に入って祈ったりね。たまーに、どうしても行きたいっていう気持ちになったみたいだね。」
生活場面で文字を書けなくて大変な思い、悔しい思いをしたことは思いつかないと言います。
「そういうのは、ぜーんぶ兄さんたちがやってくれていたからね。」 |
|
【 静岡へ、名古屋へ、そして結婚 】
まもなく、よりよい働き口があるという親戚からの知らせに、徐類順さん一家は静岡へ移ります。そこでは、銀の採掘が行われており、徐類順さんも労働力を担います。そこでの工程は、①地下の岩を切り出し、②岩に混じる銀を採取し、③残った瓦礫を廃棄するという流れです。徐類順さんは最後の銀を採取し終わった瓦礫をトロッコで運ぶ仕事につきました。朝の八時から四時半まで、戸外で働き通しです。それでも徐類順さんは、自分よりも大変な仕事を担っていた人々を気づかいます。
「私達の仕事はトロッコを運転している間は力もいらないしね。その中では楽な方なのよ。トンネルに入って行くのは男の人たち。ランプを持ってね、地下へ潜っていって作業をするの。出てくると顔も体も真っ黒。土がいっぱいついてね。大変な仕事なの。事故とかもあったよー。」
ほどなく、別の親戚からの連絡で、今度は名古屋に移り住みます。徐類順さんにとって従兄弟にあたるおじさんが、建築現場を仕切る大きな仕事についたのです。
徐類順さん一家の暮らしは安定しました。転々とした生活を経て、名古屋が最も愛着のある土地となりました。所帯道具をほとんど持たない徐類順さん一家にとって、従兄弟が用意してくれた住まいは広すぎ、荷物を整理してもがらんとだだっぴろかったことを覚えています。
しかし、ようやく安定したかに見えた生活に、影が忍び寄ります。戦争です。工場が立ち並ぶ徐類順さんの家の周りも幾度となく空襲を受けました。防空壕に入ったり出たりする毎日。町内での火消し訓練、本土決戦に備えた竹やり訓練にも加わりました。千人針で兵隊さんを見送ることが日常のこととなりました。
「この頃は、日本の女の人や子供達は疎開していったけれどね。私達は疎開するところなんてないし。怖いこともあったけれど、家族みんな一緒にいられたから。それが一番。」
十八歳で結婚。相手の方は、二番目のお兄さんと一緒にトラックの運転手をしていた人でした。
「どうって言っても、分かんないよ。すれてなかったし(うふふ)。親がいいって言ったらそのまんまかなぁって。戦争の最中だから。着物だってもんぺはいてお嫁に行ったのよ、袂のところをちょっと縫ってね、もんぺはいて、防空頭巾さげて、それでお嫁に行ったの。」
新居は、徐類順さん一家の住まいの隣ということもあり、生活自体はさほど変わりませんでした。 |
|
【 終戦、帰国、別れ 】
結婚して一年が過ぎた頃、女の子を授かって数ヶ月の徐類順さんにとって、終戦も身近には感じられませんでした。原子爆弾によって日本が無条件降伏をしたことは理解していましたが、乳飲み子の日々の食べ物や着るもの方が圧倒的に重大事でした。終戦直後の変化と言えば、道を歩くアメリカ人の姿に戸惑い半分、好奇心半分の気持ちを抱いたことぐらいです。
「アメリカの人が来て、『ハロー、カムカム』とか言って、何言っているか分からないけど、道を歩いているの。回覧板が回ってきて、『アメリカが来たから、子どもがいる家は、おっぱい出して飲ませるな』って。チューインガムをくれたりするんだけれども、相手にしちゃだめって言われてね、最初はみんなで逃げていたよ。背は大きいし、色の黒い人をはじめて見たから。今は色の黒い人もへいっちゃらだけど、当時は怖いなーって思ったのよ。」
やがて、一族のくらしを支えていた従兄弟のおじさんが、奔走と画策の末、韓国への帰国の手はずを整えてくれました。朝鮮人として、朝鮮に帰り、身内で協力しあって仕事をすれば、生活を再建できると誰もが信じていました。三十人以上の親族が、一艘の貸切船で下関から釜山へと出航したのです。経済的に余裕のない朝鮮人は故郷へ帰ることがかないませんでした。アボジがわりに徐類順さん一家の面倒を見てくれた従兄弟のおじさんは、それまでに築いた家財の一切を投げ打って一族の帰国に夢を託したのでした。
朝鮮半島での様子を、徐類順さんは語りません。ただ、「あー、良くなかった」「良くない」とだけ繰り返します。夢を抱いてたどり着いた故郷が、言葉にならない艱難の地となってしまったのです。ただ「良くない」と遠くを見てつぶやき、しばしの沈黙が流れます。「乞食以下だよ・・・」さらに追い討ちをかけるように、悲しい出来事が徐類順さんを襲いました。これまで、どんな苦境も家族の支えあいで乗り越え、それによって家族の結束を強めてきた徐類順さんの家族に、永遠の別れが訪れます。
「同じ年に、お母さんが亡くなって、それからうちの主人が亡くなった。お母さんは病気っていうか、神経やられちゃってね。いろんなことが重なっちゃったから。私は二十一歳、子供が三歳だった。子供がおばあちゃんを探してね、あっちの部屋に行ったり、こっちの部屋に行ったり。・・・お母さんも亡くなって、主人も亡くなって、もう生きようがなくなっちゃった。」
日本での生活を語るとき、どんなに過酷な場面でも、「いやだとか、つらいとか、そういうことはないのよ。ただ家族のために、仕事!仕事!生きる!生きる!それしかないの!」と力強く、自信に満ちて語っていた徐類順さんが、家族という支えを失い「目の前がまっくら」とつぶやくのです。 |
|
【 再び日本へ――今のくらし 】
「浮いたまんま、生きる希望がなくなってしまった」
それでも生き残ったものは生かされ続けます。徐類順さんは、やがて親戚の紹介で再婚をしました。他には道がないように思えました。再婚を機に再び日本へと渡り、八十歳を過ぎる今日に至るまで、川崎が生活の地となりました。
再婚当初は、かわいい盛りの一人娘を韓国の叔母に預けざるを得ませんでした。生きるためにやむを得なかったのです。
生活が安定するにつれ、娘さんを呼び寄せ、一緒の暮らしができるようになりました。「自分ができなかった分、子供だけには教育を」という一心で働き続けました。
その夫にも先立たれ、今は娘さんと、二人のお孫さんとの4人暮らしです。今も目の病気や、ひざの痛みなど、困難がないわけではありませんが、昔に比べれば平穏な毎日です。でも、あの頃
、ひらすら生きることに徐類順さんを駆り立ててくれた家族の絆が薄らいでいるのかしら、と感じさせる場面もあるようです。
「うちの孫がね、『おばあちゃんがそれでいいなら、そうすれば』って言うから『冷たいね』って言うと、『じゃぁどういう風に言えばいいの?好きにすればいいじゃん』って言うのね。自分は世話焼こうって思っているんじゃなくて、当たり前のことをしているだけなんだけど、若い人はそれを世話焼きって思うのね。孫が遅くまで起きてテレビを見ているのが気になって、言うと『いいんだよ、こっちでも考えてやっているんだから』って言われちゃう。おばあちゃん達はみんなそうなのよ。でもね、後から考えると思い出に残るからいいんじゃないかな、って思うのよ。あんまりうるさい事言わないようにしようかなぁ、とも思うけれど、見るとつい言っちゃう。でも、『おばあちゃんがいるからこういう事言うんだよ、いなくなれば、誰も言わなくなって、また寂しくなるよ』って言うの。そうすると、黙っちゃうけど。」 |
|
【 エピローグ 聞き手として 】
徐類順さんの語りは常に穏やかで、聞き手の私は深い優しさに包まれているような感覚に陥ります。同時に、身をもって経験した人としての重みが、聞き手の軽々しい「悲しい出来事」「不安な出来事」「辛かった出来事」としてのくくりを拒絶します。「悲しいとか、嬉しいとか、そういうことではなくてね・・・」ゆっくりと言葉を選びながら、何度も伝えようとしてくださったこと。それらが、この小さな冊子の中に、どれだけ表すことができたか、心もとない思いです。
それでも、徐類順さんをはじめ、在日朝鮮人一世女性の語りを幾度となく噛み締めなおすきっかけとして、この小冊子が皆様のお手元に届けられれば嬉しく思います。 |
|
(聞き手/文 猿橋 順子) |
|
|
|
【 註 】
・この冊子の内容は、川崎市ふれあい館で実施した「在日朝鮮人一世女性の聞き書き事業」(二〇〇四年十一月)および、川崎のハルモニ・ハラボジと結ぶ二千人ネットワークの「世代間交流事業」(二〇〇六年八月)における徐類順さんの語りに基づいています。 |
|
|
|