金 性太さん(キム ソンテ)
 
【 故郷の記憶 】
 キム・ソンテさんは大正一一(一九二二)年、慶尚北道の山おくの小さな村で生まれました。家族は、おじいさん・おばあさん・お父さん、お母さん、お姉さんが二人と、キム・ソンテさん、そして下に弟が一人いました。家はお百姓で、お米、綿、トウガラシなどを作っていました。
村は、冬になると川がこおるほど寒かったのですが、キム・ソンテさんの家にはオンドル(朝鮮の床だんぼう)がなく、寒い思いをしたそうです。
山おくの貧しいくらしだったので、キム・ソンテさんは学校には行っていません。小さなころからずっと、家のてつだいをしてきたのです。それは子ども心にもつらいものでした。
「十歳ごろかな、「お母さん、大邱(テグ・慶尚北道の大きな町)行ってくらそうよ」って言ったことある。いなかがいやだから。朝、起きたら田んぼや畑に行くだけで、秋になったらトンガラシ、赤いのとって。年中おんなじことのくりかえし。大変だった。そうしておいたって、冬になったら白いごはんもたべられなかったしね」
そのころ、朝鮮は日本の植民地(しょくみんち・ほかの国にしはいされる国)でした。キム・ソンテさんの村には何度も、日本人につれられた朝鮮人の役人がやってきました。日本の兵隊に食べさせるためのお米を、むりやり取っていくのです。
「十五歳くらいのとき、お米を取りに来られた。取られなくたって生きていくのにやっとなのに…それで、そのころ、取られないように家のあちこちにかくす人がいたらしいの。だから、やってきた役人が鉄のぼうでそこらじゅうさがすんですよ。それで、家のおし入れのような場所の、高いところをさがすのに、土足で上がりこむんです。私、まだ十五歳だったからおそれ知らずで、おこったんですよ。「雨がふったりしても、ここは、はだしで上がるもので、クツで上がる人なんかいないですよ。トリやネズミならともかく、人間が」って。そうしたら「女の子がなまいきな!」ってすごくおこられたおぼえがあるんですよ。それは韓国人の役人にね。日本人はうしろでだまって立っているんですよ。ふつう、子どもでもクツで上がったりしない、いなかだからバカにしてるの。えらぶっちゃって、年よりなんかめちゃくちゃにいわれました、「米を出せ、出せ」って」
 
【 結婚のために日本へ 】
 キム・ソンテさんは昭和十四(一九三九)年、十七歳で日本に来ました。親の決めた人と結婚するためです。ご主人は五歳上で、すでに日本で仕事をしていました。荷物は服がほんの少し。たった一人で、見たこともない日本へ、船にのってやってきたのです。
「結婚を世話する人がいて、紹介されて親が決めたみたい。韓国で貧しくて苦労したから、日本でくらした方がいいだろうと思って決めたんじゃない? そのとき、日本なんてどんなところか、どこにあるのかも知らない。うちの遠い親せきの紹介だから、だんなさんの顔も知らないで来て、名古屋についたら、親せきのおじいさんが、だんなさんといっしょにむかえに来て、それであの人なんだとわかったの。
日本に来たら、ことばもわかんないし、お金もわかんないし、いっくら日本がいいっていっても、なんにもなくても自分のふるさとへ行きたくて、泣いたこともあったよ」
 
【 戦争、終戦、あきらめた帰国 】
 キム・ソンテさんが日本へ来た年に、日本とアメリカの戦争がはじまりました。キム・ソンテさんがようやく日本のくらしになれてきたころには、戦争がひどくなってきました。
「どんどん戦争がひどくなって、配給だとか、〈しょういだん(火事のもとになる小さなばくだん)〉が落ちるんだとか言って、となり組で防火の用意をしたよ。防空ごうほったり、砂をげん関のところにおいたり。そうこうして一年もたったら、こんどは兵隊が出発するから、紙で日の丸の小旗をつくったり、町内会から見送りに出たりした。
戦争がひどくなったから、夫の知り合いをたよって、岩手県の盛岡に行った。そこ行ったらまたことばがわからないでしょう。『おはよう』もちがうし。そこへ一年くらいいたら、戦争がおわっちゃった」
 戦争がおわると、日本に来ていた多くの朝鮮人がふるさとへ帰っていきました。しかし、キム・ソンテさんたちはお金がなかったので、それをあきらめたそうです。そして川崎へやってきました。ふるさとの同じ村から来た知り合いがいて、仕事がありそうだと思ったからでした。キム・ソンテさんは二十三歳になっていました。
 
【 鉄くず拾い 】
 川崎でくらしはじめたある日、キム・ソンテさんは、空き地で鉄くずを拾っているおばさんたちを見かけました。鉄くずがよいお金になることを知って、キム・ソンテさんもさっそく、鉄くず拾いを始めました。キム・ソンテさんは自転車に乗れたので、あつめた鉄くずを売りに行くのにとてもべんりだったそうです。
「私、自転車は十九歳で習った。そのとき自転車乗ってる女の人、ほんといなかったの。そいである時、公園でおばあさんたちが、鉄くず拾ってるの見て、どこで売るのかと思ったら、教えてくれた。それでうち帰って来て、カゴひとつ、作ったのあったの、それとほる道具を買って、それで拾って。鉄屋まで、歩くとそうとう遠いのよ。それをあたし、早いでしょう、自転車で。それで、夢中になっちゃって。そのとき、昭和二十二年ぐらいで、誰も、現金持ってる人いなかった」
 昭和二十五(一九五〇)年に、朝鮮で戦争がはじまりました。すると、鉄くずはもっと高く売れるようになりました。キム・ソンテさんは浮島町(うきしままち・崎の港にあるうめたて地)のうめたて工事をしている会社に、さぎょう員として入りました。工事に使う砂には、鉄くずがまじっているので、それを拾ってお金にするためです。
 キム・ソンテさんは、前の年に生まれた長女をおんぶして、必死で砂をはこび、鉄くずをほりました。
「朝鮮で戦争はじまったじゃん、そのとき、鉄と真ちゅう、値段すごくいいじゃん。浮島行くとこ、ステンレスの会社があるんですよ。そこに、うめたて地つくる工事の会社に入っちゃったの。それで、鉄のとかしたの、茶色いのがあるじゃない、それ運んでいってうめたてしたの。そこで、鉄くず拾って、あたしたち、地ならしみたいにならしてやって。拾った鉄くず売って、けっこうお金になった。それで十年やった。
あたしたちのときはだれも、苦労してない人いないよ。戦争があって、それで韓国のお父ちゃんは学がないでしょう? 学問ある人はみんな事業やって、学問ない人はやるものないからドカタやったりね」
 
【 二人の娘のために 】
 キム・ソンテさんたちはそのころ、ご主人とふたり、必死でかせいだお金で、土地をかり、新しく家をたてて、スクラップ屋をはじめました。キム・ソンテさんは、そのときのようすを次のように話します。
「二人でかせいだから、それで、木でバラックみたいなのたてて。広っぱだったからそこにはかり置いて、鉄屋やって。やったらけっこうね、持ちこみで持ってくる人もいたし」
ところが、それからしばらくして、ご主人が家を出て行ってしまいました。
 読み書きのできないキム・ソンテさんは、かせいだお金を自分で銀行にあずけに行くことができず、ご主人にわたして、あずけに行ってもらっていました。そのほかに、かなりのお金を家にかくして持っていました。ご主人はそのお金と、自分が持っていた通帳を持ち出して行ってしまったので、キム・ソンテさんはご主人の家出のショックから立ちなおるよりも前に、たべていくために仕事をしなければなりませんでした。そのときのことを、キム・ソンテさんは、次のようにおぼえています。
「そいで見たらね、通帳がないの。持って行った。現金もない。私、現金かくしていたんだけどね。一万いくらの金、かくすところがないから、お皿をかさねて、その下入れておいた。それまで持って行っちゃった。字が書けないからね、自分の名義で銀行、行くってわかんない。今、書けなくても、行かれるけど、そのときうぶだから。それで、子ども負ぶってまあー朝からばんまで働いて。ほじくって鉄くず拾って」
 ご主人がいなくなってしばらくして、キム・ソンテさんはスクラップ屋をやめてしまいました。一人ではつづけていくことができなかったのです。
 ご主人はある日、ふらりともどってきました。お金がなくなってしまったからです。やっと家族いっしょのくらしになりましたが、しばらくするとご主人はまた,キム・ソンテさんのかせいだお金をもって家出をしてしまいました。そんなことが、何年かつづくうちに、キム・ソンテさんには二人目の子どもが生まれました。女の子でした。
 あととり息子にはめぐまれませんでしたが、キム・ソンテさんは、二人の女の子を一人前にするために、自分が男の人のようにがんばって働かなければならないと心を決めたそうです。
「それで、子ども産んだらまた女の子でしょう。これでもう、あたしの人生、おわりだと。私は女を捨てたと、そのとき思った。子どもを捨てることはできないし、だれにやることもできないし、これでもう私は女を捨てて、この三人の命を守らなきゃならないんだって決心した」
 キム・ソンテさんは、子どもたちを学校にやるお金をかせぐために、工事現場の仕事をしたり、商売をしたりして、昼も夜もはたらきました。
 そんなにつらいくらしでも、たった一人で日本にやってきたキム・ソンテさんには、そのなやみをそうだんする相手がいませんでした。そのころはさびしくて、いつも一人で泣いていたそうです。
「私だけが日本に来ていたから、私、ほんとさびしかったんですよ。オヤジ(ご主人)ああいうことするし、兄弟もいないし、親せきもいないしね。正月になったら三人で、子どもは外行ってあそんでるけれど、私いつも泣いてて一人で。行くところもないし。そうでなくてもさびしいのに、オヤジがああだからなおさら、しんけいがおかしくなっちゃって。」
 
【 「しゅくだい教えて」 】
 キム・ソンテさんの長女は、小学校に入る年になりました。「朝鮮学校へ入れなさい」と言う人もいましたが、このさき日本でくらすなら、日本の学校に入れたほうがよいと考え、日本の小学校へ入れました。
 とはいえ、学校に行ったこともなく、読み書きもできないキム・ソンテさんは、勉強道具をそろえてやることも、勉強を教えてやることもできませんでした。
「上の子は、エンピツひとつ買うのだって、私が学校行ってなくてわかんないから、学校のじゅんび、ひとつもしてないわけよ、何にも。一年生上がって、はん年ぐらいしたら、すごくうらやましかったんだって。友だち、マンガ本とかいろんなの持ってて、どこで買うかもわかんないから。
大きい子(長女)、言ったことあったよ、入学して十日くらいたって、『お母さん、しゅくだい教えて』って。びっくりして、教えるったってどうやって教える(笑)。りこうならね、(長女が)子どものときからいっしょに勉強したらね、今、読み書きできるのに、その頭もないの、朝出て行って働くからね、そのきかい、なかったのよ、今、考えたらそうすればよかったと思うけれど、そのとき、それできなかったのよ、ほんと。
『教えてくれ』って言うから『ごはんたべてからやろう』って言って。ごはんたべてから、すわらせて言ったの。『お母さんは、いなかで、学校もないところ、でん気もない、金もないところで生まれてそだったから、字もわかんないよ』って。そしたら(長女が)『あしたから日本人になろうよ』って言うわけ。日本の人は何でもお母さんに教えてもらう、物も買ってもらったって言うから、日本人になったらすぐそれができるんじゃないかと思ったんじゃないですか。それであたし、『日本人になるって言ったってきゅうに、あした日本人になったって勉強が分かるようになるわけないし、日本人と朝鮮人と人間をわける、〈市役所〉っていうところちゃんとあるから、それかんたんにできないから』と、そう言ったらなるほどと思ったらしいんです。『そのかわり、家に帰ってきたらあたしの言うこと聞いて、学校行ったら先生の言うこと聞いて、それだけやればいいんだ』って。『どんなに金がなくても高校は出すから』(と言って聞かせた)」
 
【 外国人とうろくしょう 】
 キム・ソンテさんは韓国せきです。日本にくらす外国人は、とうろくしょうを持っていて、それは時期が来たら新しく作りなおさなければなりません。
 昭和三十年代なかば、キム・ソンテさんの外国人とうろくをかんりする役所がかわりました。そのせいか、いつもはとうろくしょうを作りなおす時期に来るハガキが来ませんでした。ある日、友だちの家に、お知らせのハガキが来ているのを見て、キム・ソンテさんは役所をたずねました。
「とうろく係に、話したの。『うちにハガキ出した?』って。そしたら『出した』って。『うちにとどいてないから、さがしてみてくれ』って言ったの。『ほかのてがみは来るんだけど、それだけ来ないからふしぎでしょうがなくて、よそへあそびに行ったら、とうろく切りかえのハガキが来ていたから、それ見て私、とんできたよ』って言ったら笑ってた。
それから十日ぐらいいたら、ハガキが来て、(とうろくしょうの作りなおしがおくれたから)ばっ金三千円! そのとき三千円て大きいですよ。私、一日働いて三百円ですもの。それでまた役所行ったの。『とうろく係さん、これ、わるいけど、私、三千円、ばっ金はらわないから、係さんはらってください』って(笑)。『係さん、ハガキ買って出しても三円でしょ、それなのに三千円、あんまりよ。ハガキが来ないんだから、係さんのせきにんよ』って。ハガキだって、係さんのお金で買うんじゃないでしょう? 寒ければストーブの前、暑ければせんぷうきの前ですわって、それが仕事だから。あたし、『なぜあたしが、こんなくるしい思いしてビンボウなのに、そんなことするの』って。わざとしたんじゃないけどね、人間はまちがうことあるかもしれないけれど、『それ、はらってくれ』って言って帰ってきた。
それで日にちが来たからさいばん所にハガキを持っていって、はっきりじじょうを言ったの。こういうわけでおそくなったんだと。そしたら『本当、それならちょっと待ってな』って二階行って、二十分くらい帰ってこないの、その人。ははあ、これはなんかしらべてるな、って思ったの。それからもどってきて、『いい』って言われたの」
 
【 読み書き 】
 川崎でくらすハルモニたちには、キム・ソンテさんとおなじように、学校に行くことができなかったために読み書きのできない人がたくさんいます。昔の朝鮮では、「女の子は学校へ行くと、なまいきになる」などと考えられていたためです。
 キム・ソンテさんが、読み書きができないためにくやしい思いをしたことは一どや二どではありませんでした。子どもが生まれたことを役所にとどけ出るときに、子どもの名まえを書けなくて、役人にバカにされたこともありました。
「うちの子どもが生まれたとき、せき入れに行ったらね、『名まえ書きなさい』って。『書けない』って言ったの。(すると役人がキム・ソンテさんを)じいーっと見てね、『ようちえん行ってる子も自分の名まえ書けるんだから』って言うの。『先生、ようちえん行ってる子は、ようちえん行ってるから書けるけども、私エンピツ持ったことないから書けません』って言ったこともあった」
キム・ソンテさんがはじめてエンピツを持ち、字を書いたのは、七十歳になってからのことでした。知り合いから、桜本ふれあい館の識字学級(しきじがっきゅう・読み書きができない人が勉強するための教室)で、名まえとじゅう所の書き方と、ひらがなの読み書きを教わりました。
「ふれあい館ね、七十歳から三年ぐらい行ったの、勉強しに。ちゃんと字を勉強したのは、そのときが最初。そのとき近所に韓国のお姉ちゃんがいたのよ。(その人は識字学級に)あたしより一年前に行ってたの。それ聞いて、どこだろうなあと思って。どうやって行くのかなあと思って、自転車乗ってぐるぐる回ってて、書いてあってもわかんないじゃん、字がわかんないんだから。そしたら知ってるおばあさんがいたの。で、『姉さん姉さん、教えるところどこ?』ってきいたら、『ここじゃん、ここ!』って(笑)。
そいで、一人で行くのがはずかしくて、また。で、みかん一はこ、買ったの。それ自転車に乗せて、行ったの。それで中に入って、『みんなひとつずつ食べてください』って。
それで入ったら〈あいうえお〉と名まえ教えてくれて。じゅう所と。それがいちばんね、ほかいらない」
 
【 ふるさとへの思い 】
 キム・ソンテさんが、日本に来てからさいしょに里帰りしたのは、日本へ来てから三十年ほどたった、昭和五十年すぎでした。お父さんは、すでになくなっていました。山おくの貧しい村で苦労してなくなったお父さんに、なにも親こうこうをしてあげられなかったのがとても心のこりなのだそうです。
「あたし、三十年して韓国行ったら、親のこと考えたらかわいそうでかわいそうで泣いたことあるんですよ。今ならね、いなかでもなんでもあるじゃん。日本とおなじなんですよ、でん気もあるし、オンドル部屋もあるし。でん気も一回も見ないでうちのお父さん、いっちゃったから、それ考えたらかわいそうでね、ほんとにかわいそうだった。でん気も見ないで、バスも一回も乗ったことないし、そこで生まれて、そこでなくなって。それがいちばん、くいのこった。娘として、あったかいごはんいっぱい、たべさせたんじゃないしね。今ならね、少々はね(親こうこうしてあげられるけれど)。そう思ったら親はいない」
 
【 聞き取りを終えて 】
 キム・ソンテさんは、ご自分の事を、「あまり思っていることを口に出さないほう」だとおっしゃいました。
そのせいでしょうか、ながい人生にいくつもつらい思い、くやしい思いをして、時に涙も流したという話なのに、とてもおだやかに、さっぱりとした語り口で話しておいででした。これからの日々を、キム・ソンテさんが、その話し方のようにおだやかな心ですごせるようにねがわずにはいられません。
 
(聞き手/文・服部あさこ)
  
【 註 】
・この文章は、平成十八(二〇〇六)年八月に青丘社ふれあい館の主宰で行なわれた、聞き書き事業でのインタビューをもとに書きました。