ハルモニに導かれて学んだ旅
鈴木宏子
どのハルモニにも、長く厳しかった人生であっても、振り返ってみれば、「あのときが、私の人生の中で、まあまあいいときっだったかなあ」といえるときがあるようです。
今回、ご一緒した文叙和さんにとっては、それが下関時代であったことを、旅を通じて知りました。生まれて間もなく移り住んだ下関で、文叙和さんは小学校3年生まで学校に行き、解放を迎えました。
下関を襲った空襲で、学校生活が中断されたことが度々あったとしても、彼女はそこで、生涯ただ一度の学校生活を大人たちの庇護のもと送れたのです。「あのころが、一番しあわせでした」と、振りかえります
だからでしょう。文叙和さんが、今回の旅行で絶対行ってみたかった所は、関西小学校だったのです。下関をはなれて、64年振りの小学校です。校舎に昔の面影はなくとも、校門前の坂道を小雨振る中を歩いて門にたどりついた彼女は、本当に満足気に、「この坂道も昔は、土の道でした。でも、この坂の感じは同じです。連れて来てもらって本当によかった」と涙を流さんばかりの喜びようでした。
それに引きかえ、金芳子さんの悲しみは、慰めようもないものでした。芳子さんが結婚までの青春をかけて、家族のため必死で働いたその場所が、跡形もなく消え、その場所がどこであったかも定かではないというのでは、私の存在をなにによって証明すればいいのかと、足元から自らが崩れそうになる想いを味わったのでしょう。
彼女は、その後の人生、あちこちに引っ越しています。でも、彼女がお母さんを助け、長女として弟・妹の面倒をみ、いろんなことを感じつつ働いた、萩森炭鉱だからこそ、こんなにも悲しかったのだろうと思います。
今回は、ご一緒したハルモニの想いをしっかりと受け止めるだけのゆとりのある旅でした。おひとり、おひとりにこんな想いがあることを知りました。
それにつけても、今回の旅では、朝鮮半島から強制的に連れてこられ、炭鉱に送られ、人間扱いなどされず、死んでいった多くの方の遺体が、地下で放置されたままであることを知り、その人たちは、自らの想いを誰にも聞いてもらえず、殺されたのかと思うと、韓国の「日帝強占下強制動員被害者真相糾明委員会・遺骨チーム」の張錫京氏の次の言葉は、私たち日本人にとって非常に重く迫ってきます。
私たちに課せられた仕事は、亡くなられた方たちすべての遺骨を家族にお返しすることです。しかし、それを実現することは、現実的には困難がきわめて多いのです。また、たとえそれが実現したとしてそれで、全ての問題が解決するとは思われません。
犠牲者がいかなる経緯で炭鉱や戦場などに連行されたのか、またいかなる生活を強要されて死に至ったのか、これらの死亡経緯全般に関する真相糾明作業も迅速になされるべきであり、それは遺族が知るべき最小限の権利ではないかと考えます。
ご遺族の無念は推し量るべくもありません。
それにしても、私は今回もまた、ハルモニたちに導かれ、多くのことを学ぶ機会を与えられました。戦争産業を支えた日本国家のエネルギー政策のために、山口や筑豊の炭鉱の地下深くで、かくも卑劣な労働搾取が行われていた、その本当のところを知りませんでした。国のエネルギー政策が石油に移行する課程で、滅び行く運命にあった、炭坑の地下深くでは、労働者の弱みに付け込んで、信じがたいほどの待遇がまかり通っていたことをも。
荒涼としたボタ山の裾野(?)や広大な炭住跡のその下には、炭坑夫として働かされた、弱き人々、朝鮮から連行されてきた人、被差別部落の人などの汗と怨念が渦巻いていることをやっと、知りました。
知らないことは、恐ろしいことです。ハルモニたちの人生に触れることで、私はこんなにも教えられています。「ハルモニは、私たちにとって宝物です」という人がいます。そうだとつくづく思います。
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