参加者の思い 
 

どうしても行きたかった旅

伊藤宏一

 在日一世の足跡をたどる下関、九州の旅にご一緒する事ができた事、感謝致します。昨年三浦さんから御案内を頂いた時、スケジュールは一杯でした。でも私にはどうしても行きたい理由がありました。
 川崎は不思議な町です。私が20代でやり残した宿題のヒントを二つもプレゼントしてくれたからです。そのヒントは、仕事として始めた川崎市平和館の映像制作の中にありました。一つは、明治大学生田校舎内に残る陸軍極秘研究機関登戸研究所との出会いです。そして、もう一つは川崎市の戦争体験の取材が始まり、在日一世の戦争体験という事で今回ご一緒したお二人のハルモニと出会ったことです。お二人とも鉱山で働いたり生活したりした体験の持ち主です。
 私は、学生時代から5年間定職も持たずに、宮崎県の神話の里・高千穂で全国5000箇所あるといわれる旧廃止鉱山公害「土呂久公害」(70年代には、四日市・水俣・イタイイタイ病と合わせて日本4大公害と言われた)を追いかけ長編記録映画『咽び唄の里 土呂久』を完成させました。しかし、映画には続編が必要でした。亜ヒ酸を生成し毒ガスの原料砒素を産出していた土呂久鉱山では、戦争が激しくなると多くの韓国人が動員され、人体被害の大きい砒素の影響で、多数の死者を出し、取材した時点には存在していた草むらに埋もれていた一本のぼっくいの墓碑も今は無いと聞きました。そして、土呂久から大分に運ばれた亜ヒ酸は生成され広島県大久野島に、そして毒ガス兵器として中国戦線等に行っていました。
 私はそれを宿題として残して映像の世界に入り、劇映画・TV・CM等で生計をたて、宿題を忘れがちになっていた事もあります。
 今回の旅はいまだ整理が出来ずにいますが、ハルモニたちに本当に感謝の気持ちで一杯です。下関にしかいけず本当に残念でしたが、登戸のドキュメントは4月に一本目が完成しますから、そうしたら改めてふれあい館の皆さんに密着し始めるつもりです。今は影もなかった炭鉱跡の映像を改めて見ると、語りつくせなかった様々な思いを是非表現してみたいと改めて思います。
 下関で会った、今もなお当時と同じ暮らしぶりをしているらしい八百屋のおじさんに、じっくり町の話を聞いてみたいとも思います。とにかく時間がなくて残念!でも本当に皆さん有難うございました。又、旅に行きましょう。

 
 
在日コリアン一世の炭鉱労働を学ぶ
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