旅の記録 
 
・無窮花堂と歴史回廊
 
無窮花堂
  在日筑豊コリア強制連行犠牲者納骨式追悼碑建立実行委員会(裵来善代表)によって、朝鮮人の無縁仏が納められた納骨堂。裵来善氏は、ご自身が1943年10月に全羅南道から八幡西区の貝島大辻炭坑に強制連行された経験を持つ。ご自身はなんとか生き伸びたが、故郷に帰ることもできず、この土地に眠っている同胞のことを思うと、夜も眠られず、筑豊各地の寺院や墓地を回って遺骨を収集して回った。
 裵来善氏の呼びかけで、2000年にようやく追悼碑と納骨堂(無窮花堂)が完成した。15年以上におよぶ運動と交渉の結実である。裵来善氏は2008年6月11日にご逝去されたが(享年86歳)裵来善氏の意思は今も受け継がれ、納骨と遺族への返還の活動がつづけられている。
 
 無窮花堂・追悼文
 先の戦争において日本の植民地政策により、数多くの朝鮮人と外国人が日本各地に強制連行されました。
 ここ筑豊には15万人にも上る朝鮮人が炭鉱で過酷な労働を強いられ、多くの人々が犠牲となりました。筑豊の発展と日本の近代化は、まさに朝鮮人をはじめとする外国人労働者の血と、汗と、涙なしでは語れません。
 日本の敗戦により、朝鮮半島が植民地支配から解放され、半世紀以上が経過しました。しかし、いまなお筑豊の各地には多くの遺骨が放置されたままになっています。
 「こうした遺骨を収集し、納骨堂を建立して追悼しよう」という呼びかけに共感した人びとの浄財ならびに各自治体の協力によって、納骨式追悼堂を建立する事ができました。
 21世紀を迎えるにあたり、歴史的事実をあらためて認識し、不幸な過ちを二度と繰り返さない決意をこめてこの追悼堂と国際交流広場を日本とコリア両民族はもとより、すべての人類が恒久平和を希求する発信地として意義あらしめ、世代をこえて守っていくことを願ってやみません。
 
歴史回廊
 
 植民地支配の歴史、強制連行の歴史を記録にとどめ、被害者に何をなすべきかを考え、実行するのは加害者の側でなくてはならない。被害者側である裵来善氏に呼びかけられることで、初めてこの問題に取り組み始めた日本人は、等しくこの思いを抱いたという。無窮花堂を取り巻くように設置されている「歴史回廊」には、日本、韓国、朝鮮の人々が、「それぞれの立場から声をあげ、さらなる友好の輪を広げたい」という思いが込められている。次世代を担うこどもたちへのメッセージ、学習のための資料として、朝鮮半島と日本の歴史を知る上での資料や、記録写真、友好のメッセージがちりばめられている。
 
 簡単な年表にはじまり、いつも見慣れているのとは違う地図。先ほど紹介した、写真集『万葉録 筑豊9 アリラン峠』をつくった上野英信は、「日本にとって中国と朝鮮半島は乳房だ」と表現した。また別の人は短刀をつきつけられている、と見る人もいる。見方によってずいぶんちがう。この地図には、いつも見ているものを違う角度から見直してみよう、という提案の意味が込められている。
 
 豊臣秀吉時代に朝鮮半島から連れて来られた陶工 → 朝鮮通信使の様子、日本と朝鮮の間の良い歴史の部分 → 関東大震災の悲劇 → 炭鉱労働の様子、と回廊は続く。
 
 犬養さんは、案内を頼まれた時は、必ずここに立ち寄るそうだ。小学生や中学生に是非学んで欲しいという思いがある。犬養さんはガイドの最後に、こう締めくくられた。
 
 「在日の歴史というのは、日本人の歴史において、一番重要なことだと思う。それが分からないで日本人が生きているっていうのが、僕はおかしいと思う。」
 
 
「炭鉱での過酷な労働」
   
 
 
  
在日コリアン一世の炭鉱労働を学ぶ
下関・筑豊フィールドワークの旅
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