旅の記録 
 
・法光寺 朝鮮人慰霊碑
 筑豊地域は、鉱山が閉山された後にも、土地が陥没してしまうという鉱害が残された。露天掘りではなく、地下を掘っていくため、土地が広範囲に下がってしまう。このため、新幹線も筑豊を通るところはコンクリートにしないそうだ。いつでも修復作業ができるように土にしておく。
 1970年代、法光寺のある周辺一帯でも、土地が下がり、修復工事に着手することとなった。その準備のために、納骨堂の整理をすると、ミカン箱に骨がいっぱい入っているのが見つかった。骨をくるんだ布には、金さん、梁さんなどと名前が書かれていた。
 そこで、朝連の人と、檀家に市長がいたということもあり、教職員組合の人たちも協力し殉難碑「寂光」が建立された。今でも一年に一回供養が行われている。
 碑文には、犠牲者数は2万と記されているが、いかに数字があやふやであるかが分かる。数えてみると確かに少ないのだが、これは記録できる人の数が少ないということ。記録されていない人がその背後にどれだけいることか。日本の碑は朝鮮人を扱う時、沖縄も広島も、万単位である。万単位ということは要するに、数えられない。それぐらい虐げられていたこと、人間扱いされていなかったことを示している。
 
 
 
 朝鮮人炭鉱殉職者之碑・碑文
 1910年、日本は朝鮮半島を統制下に治め、以後1945年の敗戦まで植民地として支配を続けました。特に1931年から日本が行なった15年戦争のために国内の労働力が不足し、この筑豊においても石炭採掘の労働力として約15万人の朝鮮人が強制的に連行されてきました。以後1945年までの強制労働と劣悪な環境の中で約2万人が坑内事故や病気で亡くなられました。
 この殉難碑には、このような過酷な歴史を生き、祖国の山河や親族に再び会うこともできずに無念のおもいで亡くなっていかれた朝鮮人の遺骨が安置されています。ここに集う者、皆共に歴史の事実を心に刻みたいものです。
 「寂光」は、お経に「常寂光土」- 常にやすらかな光に満ちた世界 - いわゆるお浄土のすがたをあらわした言葉です。
1975年、法光寺鉱害復旧に際して殉難碑建立以来、絶え間なく各地からの参拝者があることを鑑み、ここに改築して永代の供養に付し、あわせて日朝・日韓の親善と国際社会の平和を希うものです。                           1997年3月再建

 
  
在日コリアン一世の炭鉱労働を学ぶ
下関・筑豊フィールドワークの旅
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