旅の記録 
 
・関門トンネル殉職者の碑
 本州の下関市(彦島江の浦町)と九州の北九州(門司市梅の木町)を結ぶ関門鉄道トンネルは、世界で最初の海底トンネルである。1942(昭和17)年に下り線が(3,614メートル)、1944(昭和19)年に上り線(3,604メートル)が開通した。
本州と九州を結ぶ大公共事業として、橋を建造するか、海底トンネルを建造するか、といった協議がなされた。橋にした場合、軍事上の攻撃目標にされることが懸念され、費用も高く見積もられたために、工事としてはより困難な海底トンネル案が選択されたそうである。当時としては世界最高技術の、潜函工法、シールド工法、圧気工法などが採用された。外国人技術者を招聘することなく施工計画を立てるなど、国の威信をかけた工事という側面もあったようである。
 1935(昭和10)年にはじまったトンネル工事は、漏水事故などが相次ぎ、困難を極めたと言う。さらに、戦況が進むにつれ、九州の石炭を本州に送る需要の高まりを受け、「戦時陸運非常態勢」(1942(昭和17)年、閣議決定)が発令された。当初予定していた施工計画を繰り上げた突貫工事となった。一方で、トンネル工事に従事できる労務者は減っていく。そこで、ここにも多くの朝鮮人が動員されることとなったのである。1940年10月31日付けの関門日日新聞には、「シールド工法あと百二十米余を余すのみ・・・半島人五十余人を得たので近く内地に送り込み・・・更に第二回第三回と後続部隊が送られる予定・・・」という記事が掲載されたそうだ。逃走者の記録もあり、261人のうち、逃走者は103人を数えたという。この数字が、朝鮮人が決して望んで来たわけではない、ということを物語っている。
 この工事では、陥没事故とそれにともなう海水の流入で32人の殉職者が出たことが記録されている。下関側の線路内には、殉職者32人の名前を刻んだ「殉職碑」が建てられている。
 慰霊碑には、朝鮮人の名前が、少なくとも4名、刻まれている。創始改名したとみられる名前も認められる。正確な朝鮮人犠牲者の人数は不明。戦前にできた碑には、朝鮮人の名前も盛り込まれるが、戦後に建てられた慰霊碑には、朝鮮人の名前が落ちていることが多いという。
 広崎さんの計らいで、JR当局に立ち入り許可をもらえた。係の人が数名で、電車の時刻表を確認し、線路をまたいで殉職者の碑にお参りをすることが叶った。参加者は互いに手と手を取り合って、線路を渡り、殉職者の碑に辿りついた。冷たい雨のそぼふる中、花を手向け、手を合わせた。
 
碑に朝鮮人の名前を認めた、徐類順さんは、
 
「それでも、名前を載せてもらった人はいいよね。
名前なんか残らないで死んでいった人がいっぱいいるんだよ。」
 
 とおっしゃる。徐類順さんの叔父さん(お母さんの弟さん)は北海道の炭鉱で命を落とされたそうである。北海道のどこの炭鉱なのかも、分からないと言う。ただお母さんがしばらく泣いていた。涙を流し続けるお母さん。その記憶だけが残っている。
 徐類順さんのこの言葉を受けて、金芳子さんは半ば励ますようにこう言った。
 
「たった一人でも、ほんの数人でも書いてもらってあればさ、
その人がほかのみーんなことも一緒に浮かび上がらせてくれるさ・・・」
 
さらに、小さくこうつけ加えた
「・・・そう思わなかったら、やってられないよ」
 

 
  
在日コリアン一世の炭鉱労働を学ぶ
下関・筑豊フィールドワークの旅
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