■ 旅の記録 ■ | ||||||
・下関 旧東大坪町 ガイド:前田博司さん(下関、歴史研究家) この一帯を人々はトングルトンネ(糞窟村)とよぶ。ここに、朝鮮半島から渡って来た人々が住み始めたころ、各家庭にちゃんとしたトイレもなく、脇道などで用をたした。汚物が、三方が小高くなっている地形の、底の部分にたまり、においがただよっていたことをもって、このようないい方がされるようになったという。いささかオーバーな表現ではあるが、当時は各人が、勝手にとりあえず自分の住みかを作り、衛生状態にまで配慮が行き届かなかったことなどが想像される。 ここに始めて来た、徐類順さん曰く、「ここは釜山にそっくり」と。確かに、釜山40階段界隈の雰囲気がある。朝鮮戦争当時、北から逃れて来た、多くの避難民が借りの宿を建てて暮らし、戦争が終わって無事だったら40階段前で再会しようと約束しあった、その場所である。同様に下関も、解放後、帰国を待ちわびる人たちであふれ、トングルトンネにも当然人は押し寄せ、いつ出るとも知れぬ船を待って、借りの生活をした。 メイン道路といっても車一台通るのがやっと。その道は入り口から、ずっと坂道になっていて、坂道を登りきったあたりには、神田公園がある。ここを訪れた時、親子連れが楽し気に遊んでいたが、ここは、金芳子さんや、文叙和さんが暮らしていた当時は市営の火葬場であった。近くには刑務所もあり、ここは人が好んで住む所ではなかった。そこに、朝鮮人が集まって住むようなったのであろう。 今は、もちろん戦前からの家は建て替えられ、町全体の衛生状態もよくなっていて、年を経て、町が落ち着いた雰囲気になっていた。 神田公園の少し手前で、金芳子さんが、「ここが、私が嫁にきて住んでいたとこ。新しく立て替えてるけど、懐かしいね」と言えば、道の反対側では、文叙和さんが「坂の感じからいって、このあたりに私の家があったとおもいます」と話す。 メイン道路を歩いていて一番目を引かれたのが、メジュ(みそ玉麹)を網袋に入れて軒先などにたくさん干してある風景。これで、テンジャン(味噌)を作る。川崎では目にしたことのない風景である。道の両側には、朝鮮の乾物や野菜を売る店が何軒かあったが、それらの店でもテンジャンを作るそうで、遠くからの注文もあったりして、すぐ売りきれるとのこと。ほかに店先でチヂミを焼いている店もあり、韓国海苔やミョンテなどを並べている店もある。 前田さんに案内されて、脇道にはいって昭和館の跡地や朝鮮学校を訪ねたが、さらに道は細くなり、坂も急になった。細く曲がりくねった道を行くと、家が勝手な向きに建っていて、その隙間の思いもかけない場所に小さな畑があって、いかにも丹精された緑の葉っぱが茂っているのを見ると、ここは、金芳子さん(空き地があれば、野菜を育て、みんなに食べさせてくれる)と国を同じくする人々が、日々の暮らしを大切に生きている場所であると実感させられた。 この地区一帯を案内されて、川崎から行った者たちは、「ここは、川崎の池上町に似た雰囲気があるが、しかし、規模からいっても、歴史的な背景からいっても川崎のそれとは比較にならないものをもっている。ここを、訪れ、ここの歴史と現在について話しを聞けば、どんなに多くのことを学べるか。ここは、生きている博物館ではないだろうか」という想いを強くした。
帰国船をめぐる事情 1945年8月15日の解放の日を境に、帰国を急ぐ人々が、下関に集まって来た。人の群れはトングルトンネにも溢れたが、関釜連絡船は一向に出ない。少しお金のある人は、古い漁船を手に入れ、命からがら親戚一同で釜山に帰った。 文叙和さんは、帰国の状況を次のように語っている。 戦争が終わると、お祖父ちゃんは、すぐ帰国することを決めましたが、下関には帰国を急ぐ多くの朝鮮人が集まり、大きな関釜連絡船に乗る許可は、私たちにはなかなかまわってきませんでした。 秋になった頃、我慢しきれなくなって、お祖父ちゃんは親戚の人と相談して、小さな船を一艘かりて、祖父母、両親、おじ・おば、子どもたち計14人と船を操縦する人2~3人が乗り込んで、釜山をめざしました。屋根や被いもない小さい船だったので、途中海が荒れて大波にあったとき、帯でみんなの体を縛ったんです。死ぬんならみんな、いっしょにということで。そして、荷物が重いと船が沈むので、泣く思いで布団や服などの荷物はすべて捨て、体にくくりつけた現金だけもって上陸しました。幸いなことに、みんな、無事でした。 同じく、終戦の秋、朝鮮に帰った徐類順さんは、同じように、自分たちで船を借りて、帰国している。名古屋に住んでいたが、家財道具一切を処分して下関へ行き、親戚のおじさんが船を手配して、親族一同17人で釜山を目指した。類順さんはすでに結婚して8か月の子どもがおり、主人と家族3人で帰った。赤ちゃん用のオムツなどは荷物として持っていったが、他の人たちは荷物は何も持っていかなかった。名古屋から下関に来て、3泊ぐらいして船に乗ったが、下関の混雑振りを目にした、おじさん初め類順さんたちは、「釜山に戻ってもきっと、この混雑が続くのであろうから、生活のたいへんさは想像がつく、すぐにでも名古屋にもどったほうがいい」と思ったが、汽車の切符も手に入らず、それは叶わなかった。徐類順さんは、そのとき、20歳だった。 金芳子さんは、「下関の町は、帰国したい人が日本中から集まってきて、ごった返してましたよ。私ら、お金のないもんは、帰国なんてこと考えてもみませんでしたね。そこそこお金がある人が、帰国を考えたんです」と、当時を振り返る。 文叙和さんは、「関釜連絡船に乗る許可は、私たちにはまわってきませんでした」と話しているが、実は、戦後、下関港水域は、米軍の投下した磁気機雷や沈没船が多く、危険であったため、関釜連絡船は動いていなかった。そのため、下関の駅構内やそこから溢れ出た人は付近の焼け跡にひしめきあう状態で、情報を求め右往左往しつつ、いつ乗れるとも知れない船を待っていた。 「帰国を急ぐ朝鮮人の群れは、日本政府が有効な処置を講じないまま、混乱と無秩序の中に放置されていた」(金賛汀『在日コリアン百年史』)ということであったのだろう。 そのうち、GHQから許可が出て、8月31日から引揚船興安丸が、下関港ではなく仙崎港(長門市)から出港することになった。以後、山口県からの帰国船の発着は、仙崎港からであった。 今回、聞き書きをさせてもらった、黄龍淑さんが、「家族と帰国のため、仙崎に土地を買い、バラックを建てて帰国を待った」と語っているのは、このことである。そのため、仙崎の町は、下関から移動して来る朝鮮人で混乱を極めた(下関から仙崎までは、現在、JRの快速で2時間10分の距離)。お金と時間をかけて仙崎まで来ても、待機しているうちにお金を使い果たした人、朝鮮半島の不安定な状況を案じた人たちが帰国を諦め、再度、日本各地へ戻っていくということもみられた。 このような帰国状況をみていると、日本政府がとった無責任な態度、すなわち解放後すぐにでも帰国したかった人々に帰国船の斡旋を行わず、また強制連行で連れて来た人々を、責任をもって本国に送り届けなかったことは、戦前の強制連行と同じ根の考えであると思えてくる。 それでも、1946年末までに、仙崎港から帰国した人は、320、000人に達した。 昭和館 昭和館は、今回の旅の参加者の内、ただ一人、文叙和さんが、そこで過ごした経験をもつ懐かしい場所である。しかし、建物そのものは老朽化にともない、すでに1985年に取り壊され、今、その場所は空き地のままで、わずかに正面の石段・石垣と14基の石柱がここに昭和館があったことを示しているに過ぎない。 叙和さんは、下関時代、小学校に行く前のしばらくを、毎朝、缶詰工場に働きに出かけるお母さんに送られ、昭和館で一日を過ごしたそうだ。「いまでいう保育園のようなところでしたね。お遊戯っていうんですか、踊りみたいなことを教えてもらったり、まるく線を引いて中と外で鬼ごっこみたいなことしたり、何か作って遊んだり、お昼ご飯もここで食べました。みてくれた人は、日本語で話し、優しかったです」と当時の様子を語ってくれた。 昭和館とは 下関在住の郷土史研究家・前田博司さんが、下関の在日コリアンの集住地区である、旧大坪地区(現神田町)を案内してくださった。前田さんがまとめられた「『昭和舘』の歴史」には、次のように記されている。 この建物は、「内地」に渡って来た朝鮮人の保護救済のための施設として、昭和3年に本土の玄関口である下関に設置されたものである。建物があった大坪地区では「当時としては堂々たる建築で、偉容を示していた」。 朝鮮半島からの渡来者が多く、その中には所持金も少なく、行き場所も決まっていない者も相当数にのぼった山口県(下関市)では、大正年間からその人たちに対する保護施設の設立が望まれていた。一方で、「1912年(大正1年)9月の関東大震災後、流言風説にもとづく朝鮮人の多数虐殺事件が起こったため、下関は虐殺の噂に脅えて帰郷を急ぐ朝鮮人の大群で騒然とした有様であった」(前田博司「波乱の半世紀を探る」)ため、彼らの不安や不満を鎮めるためにも何らかの方策が求められていたのだ。 それらを受けて、社会事業団体と県の補助、篤志家の寄付などで、「昭和館」が建設された。昭和3年に完成。「内鮮融和」を掲げ、簡易宿泊・職業紹介・授産・教化・保護救済・児童の就学準備教育などを事業内容と掲げていた。 設立から終戦を迎える、十数年間、昭和館は、文叙和さんが「お世話になった」、児童の就学準備教育などを主な事業としながら、帰国の費用の貸し出し、職業の斡旋なども含め、朝鮮人のための事業を行う場所としての働きを続けていた。同時に、「ただの福祉事業を超えた国策(協和事業)推進のための機関であったことを忘れるわけにはいかない。」(『朝鮮人強制連行調査の記録』、p.44)との指摘も、心に留めておかなくてはならない。 文叙和さんに、「預かってもらうのに費用がかかったのか」、「預かってもらう子供に何か基準があったのか」などいろいろ聞いても小さかったので、分からない、ということである。それでも、「昭和館に行くことはいやではなかった」と。 これまで、叙和さんは、「下関では、保育園みたいなところに通ってました」と話していたが、「今では、昭和館のことを分かってくれる人ができたので、「昭和館」と話します」とおっしゃった。 戦後、昭和館は、祖国への帰りを待つ朝鮮人の一時収容施設として使われたこともあった。その後、朝鮮下関小学校→市立小学校の分校→県立聾学校下関分校→警察の署員宿舎などを経て、取り壊しに至った。 戦前の一時期、山陽ホテルと外観において並び賞され、内容において対照的であった、「昭和館」が、朝鮮人の集住地区に、かつて存在したことさえ、今では知らない下関人が多くなったそうである。 光明寺(朝鮮寺) 坂の多い東大坪町を散策した後、光明寺に立ち寄った。温かいコーン茶をいただき、ストーブで暖を取らせていただき、ほっと一息つくことができた。韓国人の金鎮度住職から、このお寺の理念や歴史についてお話を伺った。大房には力道山木像が、境内には平和の大梵鐘がある。 クリスチャンの家に嫁いだ金芳子さんは、15、6年間の下関の暮らしの中で、このお寺を訪れることは、一度もなかったそうである。 在日大韓基督教下関教会 在日大韓基督教下関教会は、トングルトンネの真ん中に位置する。1990年代から2000年にかけて、金恵玉さんが牧師夫人として在日コリアン、地域の人々に奉仕された教会でもある。かつては多くの在日韓国・朝鮮人が集い、活気に満ちていた。 金芳子さんにとっても、ここは忘れ得ぬ場所だ。芳子さんのご主人は、教会に長く奉仕されていた。青年が少なかったことから、35歳くらいまで、青年会長をつとめ、日曜学校の先生もなさっていたそうだ。牧師の不在中に留守を守って、家族でここで暮らしたこともあるそうだ。 仏教の家から、クリスチャンの家に嫁いだ、金芳子さんは、「何もかもが新鮮だった」と下関教会に通い始めた日々をなつかしむ。「占いとかも、一切みなくなったしね。こころが楽になった。それに、教会に通うようになってから、それまでよく見ていた悲しい夢も見なくなったよ。」 下関教会が、金芳子さんをはじめ、多くの在日韓国・朝鮮人の心の拠り所となっていたのであろうことが想像される。 山口朝鮮初中級学校 1946年以降、昭和館の建物が、民族学校の校舎として使われていたが、1949年には朝鮮学校閉鎖令により閉鎖を余儀なくされた。後に、その隣の土地を朝鮮人がみずからの手で開墾し、下関朝鮮初級学校(現・山口朝鮮初中級学校)を建て(1956年)、以来、多くの子ども達の学び舎となっている。 関西小学校 文叙和さんが、1年生から3年生まで(1942年~1945年)通い、金芳子さんの子どもさんたちが通った小学校である。 自分のお願いごとなど口にすることのない文叙和さんが、自分が3年生まで通った小学校には是非、行ってみたい、そこを訪ねることを今回の旅で一番楽しみにしていると遠慮気に話した。 |
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訪ねました。文叙和さんの通った関西小学校を! | ||||||
もちろん、叙和さんが通ったころの木造校舎ではなく、鉄筋の建物になっており、校舎には昔の面影はない。しかし、正門に通じるゆるやかな坂道をゆっくり歩きながら、叙和さんは、「この坂道は、土の道でしたが、あの時の感じは残っています」と話し、脳裏に刻み込まれた坂道の感覚を思い出すことができた幸せをかみしめておられる様子であった。 叙和さんは、近藤松子という通名で通っていた。それでも、朝鮮人だということは、みんな分かっていただろう。叙和さんの記憶に、朝鮮人だということで差別された、とうことはないそうだ。成績がよかったので、いつも先生から、副級長に任命されていたそうだ。 小学校の生活で、思い出すのは、梅干の入った「日の丸弁当」を持って行ったことだと叙和さんは、話す。 弁当箱はアルミで、寒い時はストーブの上にのっけて、あっためるんですけど、米粒は蓋にもくっついて、残さず食べるのはたいへんでした。 1945年6月29日と7月2日に下関市街地を狙った、B29からの大量の焼夷弾投下により、下関は壊滅状態となった。それまでにも、たびたび空襲はあり、満足に学校の勉強はできない状態だったそうだ。 学校で先生が、「道にお人形が落ちていても、ぜったいに拾ってはいけません。中に爆弾が入っていて、爆発することがありますから」と強く言われたのを覚えている。 7月2日の下関大空襲では、他人の死骸をたくさん見、それが暑さの中で腐乱していく様も見た。 10歳にも満たない、幼い叙和さんは、そのとき以来、人の死に無感覚になってしまったと、嫌悪感に襲われつつ語る。 その状態で、8月15日を迎え、その秋には、朝鮮半島への帰国を果たしたものの、彼女の学校生活はそこで途切れてしまったのだ。 現在の関西小学校は、少子化やドーナツ化現象の影響により、児童数は年々減少し、全校で7クラス、児童数150名足らずの小さな学校である。 今から60数年前、トングルトンネから関西小学校に通い・学び、中途退学(?)した児童の追跡調査など試みられたなどということは、もちろんないだろう。しかし、自分にとって唯一の学びやであった学校を「母校」と呼ぶことも叶わず、その後、日韓の間で厳しい人生を送らざるを得なかった、在日の高齢者が、川崎の地にいることは知ってほしいことだ。 |
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