旅の記録 
 
・昼食会でのお話
                            
              今の活動の種をまいてくれた朝鮮人の友
                                     (山口武信さんのお話)
 初期の炭鉱労働は、「産業戦士」とうたわれ、特配も受けられ、よく働く人が表彰されたりもした。その報奨金は、最優秀の人は500円、次が450円、3番目は400円と、1等から3等までが出た。それをもらった人は、朝鮮人でも故郷に家を建てられる人もあったという。一昨年の慰霊祭に来ていただいた証言者の方は、「水没事故で450円もらい損ねた」と言っていた。
 普通の人の当時の日給は2円。当時の貨幣価値は、50銭は銀貨でそれなりの価値があった。当時、映画を見るのが35銭。素うどん、あんぱんが5銭の時代。5銭で楽しんで物を買うことができた。だから500円の報奨金というのは相当に大きなお金。
 炭鉱の暮らしがそのようである一方、中国戦線に召集受けて行っていた人が、「戦地では、毎日、毎日、一番嫌いなネギばかりが出る」と、食糧事情の悪さを嘆く手紙を書いてよこした。だから朝鮮も、事情は同じだったのではと思う。
 はじめて日本に来て、2円もらえるとは言っても、海底炭鉱に入る人は、毎日命がけだった。坑道の中で、すぐ頭の上で漁船(ぽんぽん船)のスクリューの音が「ぽんぽんぽんぽん」と響いて聞こえる。いつ天井がほげて水がもれるかと、恐怖心にかられながらの作業だった。「(坑道の天井は)お前の住んでいる家の天井より丈夫だ」と冗談ともつかないようなことを言われ、働かされていた。
 それが、だんだん食糧事情も悪くなり、十分な食料も与えられなくなった。「千凾出し」の日だからと体調が悪くても出されたりした。給料も現金で渡されることはなくなり、全部貯金させられた。それは日本人には、戦後には戻って来たが、朝鮮人はどうだったのか。受け取れなかった人も沢山いたのでは。いずれにせよ、肝心な時に使えないんじゃ意味がない。あの当時、私は一万円の保険に入っていたが、受け取れる時になったら、すっかり貨幣価値が変わっていて、何もかもお話にならない、という状況だった。
 炭鉱は、戦争の拡大により、人手不足の問題も深刻になっていった。復員兵や、職のない日本人も、炭鉱では住むところも、特配もあるということで、多く働いていた。大学教授などの日本人も一時的に働いたりしていた。
 朝鮮人が多い炭鉱は朝鮮炭鉱と呼ばれていた。同じ朝鮮人でも、「一般」の朝鮮人と、「募集・徴用」で来た人は、住むところも違っていた。「募集・徴用」で来た人は、単身者だったので、余計脱走が心配された。そのため、宿舎は身の丈の三倍くらいある高い塀で囲まれていた。
 日本人と朝鮮人がいつも仲が悪かったわけではありません。助けたり、助けられたり、ということがありました。私たちの周りにもたくさんの朝鮮の人がいました。戦後、私に「今から北鮮(注)に帰るから。白頭山に登りに来いよ!」と言って去った人の声が、今でも耳に残っています。私が今やっている活動も、どこかで彼の声が聞こえる気がするんです。彼が種をまいてくれたように思うんです。
 それで、募金を集めて、慰霊碑を作ろうと、今、活動をしています。今ある殉難者の碑には、犠牲者の名前も、そのうちの137人もの多くが朝鮮人であったという事実も、日本人からの謝罪の言葉もない。そこで追悼碑建立のために94坪の土地をやっと購入しました。1月31日の慰霊祭の日までにさら地にしようと、進めているんです。
 今までは資金を全部、慰霊祭に韓国から遺族を呼ぶのに使ってしまっていて、たくわえが全然なかったんです。今年は碑を建てる費用に少し回させていただきたいということで、招待者は3人と少ないんですが、理解していただいてやっている次第です。
  (注)に、山口さんの談話の発言引用として、「北鮮」という表現があります。最近は、言葉の書き換えで見聞きする機会が少なくなっていますが、少し前まで、日常的な会話の中に生きていた言葉でした。 差別的な背景をもたずに表現されたものであり、あえて、そのまま記載しました。
 朝鮮植民地支配に基づく、植民地用語として、朝廷に繋がる「朝」の字を落としたといわれ、侮蔑的につくられた「鮮人」という言葉が、広く市民社会に浸透し、さらに、戦後の南北分断後、「北鮮」という言葉として、日本の日常社会に 新たな意味合いを加味しながら使用されてきたことを事実として確認したいと思います。言葉の書き換えや、言い換えにより、その事実さえもなかったかのように手を加えるべきではないと考え、そのままにしましたが、今日、排外的な風潮が高まりを見せる中、インターネット上の情報でも、新たに侮蔑的な意味合いを含ませて「鮮人」という言葉が多用されてきています。そのことを、みなさんと今日的課題として、確認したいと思います。 
            (かわさきのハルモニ・ハラボヂと結ぶ2000人委員会)
 
 
 
在日コリアン一世の炭鉱労働を学ぶ
下関・筑豊フィールドワークの旅
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