旅の記録 
 
・萩森炭鉱跡
 ガイド:山口武信さん(「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」の代表)    
 
 金芳子さんが10代の頃、働いていた萩森炭鉱跡まで案内をしていただいた。芳子さんは、現場に到着するまで、「炭鉱の中は私が案内する」と楽しみにしていらしたのだ。出がけに息子さんに「炭鉱めぐりに行く。私が案内しなくちゃなんない」と言ったら、きょとーんとして、「まあ、元気に行ってらっしゃい」と送り出されたのだそうだ。
ところが、車が停車し、降り立った瞬間、「え?どこ?」と辺りを見回してしまう参加者一同。炭鉱の面影は何もない。
 
記録によると、萩森炭鉱は昭和37(1962)年12月26日に中国坑が、翌38(1963)年10月8日本坑と新坑が、国の炭鉱整理促進事業のもと、いわゆる「閉山交付金」を受けて閉山されたとある。
その地には、記憶をたぐるかけらも残っていない。炭鉱は埋められ、跡形もない。「住んでいた長屋も、もしかして、少しは残っているかな・・・」と言っていた金芳子さんの期待は、ことごとく裏切られてしまった。何もなくてだだっ広い、草ぼうぼうの地面があるばかり。荒れ地を囲うフェンスに、かろうじて「社有地 無断立入禁止 萩森興業(株)」の文字が認められた。
 
 
 この地に到着する前は、「萩森炭鉱の中に入って見られるのかしら?中に入ってみたいな・・・見たい半分、怖い半分」と言っていた金芳子さん。車を降りた途端、「なんだこりゃ・・・」とうめくような声を発した。何も残っていないことに愕然とし、「くーやしー、くーやしー」と叫ぶように繰り返された。
 
 付近に目につくものは老人ホームが一軒あるのみ。それでも金芳子さんは、車が発車した途端、はっと振り向き、「あの建物の写真を撮っておいて!」と頼まれる。「もう来ることもないだろうけれど、もしも、もしも、万が一、妹とかが来たいって言ったら、目印になるじゃん」とおっしゃる。
 トイレ休憩に立ち寄った江汐公園の沿革には、確かにこの地が炭鉱の栄えた町であったことが記されている。
  

 「池には鯉、ゲンゴロ鮒、鰻などの魚類が数多く生息していましたが、石炭採掘による地下鉱物の流入により、水は青く澄み、神秘的な湖水に変わり、魚類は姿を消しました。炭鉱閉山後(昭和38年)は水質も変わり、現在では鯉や鮒などが生息するようになりました。」
 
 
 
  
 炭鉱閉山の時期は、確かに萩森炭鉱の閉鎖年と合致しているが、あたかも炭鉱の存在そのものが害悪であったとでも言いたげなこの文面に、複雑な心境になる。
それでも、こうしたかすかな片鱗に、この地が、確かに金芳子さんが労苦を刻んだ炭鉱の地であったことを確認することができたことを幸いと思う。
 
 
 
 
 
何もなくなっているから、なんぼ「あそこが萩森炭鉱だ」って言われても信じられない
                                      (金芳子さん)

 
炭鉱労働を支えた朝鮮人少女
(金芳子さんのお話)
 最初に来たのは小野田炭鉱。5歳の時。先にお父さんが来て働いていた。(山口さんの話を受けて)お父さんは募集なのか、徴用なのか、まだ小さかったから分からない。小野田炭鉱ではまだ私は小さい子どもだったから、子守りとかをしていて炭鉱では働かなかった。10歳くらいのとき、お父さんが炭鉱で足を怪我した。それで萩森炭鉱に一家で移ったの。怪我をしたと言っても、まだ炭鉱では働けたんだね。少し簡単な仕事に変わったかもしれない。

 住んでいたのは、小野田炭鉱でも萩森炭鉱でも長屋。ぜーんぶ朝鮮人。日本人はひとりもいなかったね。

 14,5歳になった頃から、私も炭鉱で働くようになった。16歳で嫁に行くまで、選炭の仕事をしていた。選炭というのは、前の人がトロッコに乗せてきた石炭を、ボタよりするの。大きいのと小さいのと分ける。分けたやつを、トラックに乗せて、港まで運ぶの。4トン積みとかの大きなトラックでね。せめて港まで行った道とか、残っているんじゃないかと思ったんだけど。一体どこをどういったんだか。海までそんなに遠くなかったと思うんだけど、(今の風景は)全然記憶に合わない。(山口さんのお話では、埋め立ても進んだため、当時の港と今の港は、場所も様子もまったく違うとのこと。)

 トラックで運ぶ時に、私は荷台に乗って行くんだけれど、道すがら、日本人の農家の家の前に来ると、バラバラっと石炭を足で蹴飛ばして落としていくの。農家の家で火をたくのに使うじゃん。その頃は薪も少ないしね。私たちは石炭をよく使ったの。でも、あんまり派手に落とすと怒られるから、少しずつね。ばらっ、ばらっと。それで落としていくと、そのお返しに食べ物をちょっと分けてもらったりとかしてね。知恵だよね。そうやって助けあって暮らしてたんだよ。それで、港に着いたら船に積むんだね。

 子どもの頃だから、記憶って言ってもそう多くないし。近くに川が流れていて、貝を取って食べたりしたのを覚えている。オオノ貝って長いの。内臓がぶらさがっているの。それを干したりもして。マテ貝みたいな感じ。それから毛がついた貝、赤貝、あれもようけ食べた。今じゃ高級だよね。いっぺんに食べれないくらい取れるから、食べない分は干しておいて冬に食べたり。だから、お汁は出汁要らず。干しておいたら、よけい出汁が出るもの。そういうのには苦労しなかったね。


萩森炭鉱跡
 
 
  
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