戻る   
 
2007年記録化事業
主要テーマ
川崎駅前「どぶろく横丁」の形成
 
サブテーマ 民族教育の変遷
実施日:2007年8月24日
会場:焼肉店「みよし苑」
語り手:姜秀一さん
報告者:服部あさこ
 

□いわゆる「朝鮮部落」形成のパターン


第一期
 1910年の日韓併合によって、朝鮮が植民地となった後、日本に渡ってくる人が増えてきた。渡ってくる朝鮮人は、基本的に知人・親戚を頼って、彼らの住まう土地に来る。そうして集住地区が形成されていった。このような在日コリアン集住地区は全国にあるが、ことに大阪は地区が多く、それぞれの規模も大きいものが多い。現在も、大阪府の在日コリアン人口は他都道府県に比べ格段に多く、大阪市生野区の猪飼野と呼ばれる地域は集住地域として有名である。
 姜秀一さんの父と祖父もこの時期に日本へ渡ってきて、父は大阪で働いた。

第二期
 第二次大戦前および大戦初期、出稼ぎなどで来日した在日朝鮮人が従事してきた仕事は、主として土木工事であった。また、大戦の中・後期、徴用や強制連行で来日した朝鮮人の中にも、これらの労働に就かされた者は多い。彼らは現場近くのいわゆる飯場に寝起きし、次第にその周辺に集落が形成されていった。
 このように、飯場が元となって形成された集落も各地にある。姜さんによると、川崎では中留、東京では枝川が典型的な飯場部落である。姜さんは一時期広島で生活していたが、広島の安佐、大竹、海田市(かいだいち。のちの安芸郡海田町)、呉などの集落は飯場部落であったという。

第三期
 戦後に形成された集住地区には、東京の御徒町のように、焼け野原となった場所に朝鮮人が自主的に固まりあって住むようになったものや、自治体の政策で、それまで住んでいた場所を立ち退かされ、代替地として用意された土地に朝鮮人が集められた形で作られたものがある。
 姜さんの営む「みよし苑」のある川崎駅前は、後者のようにして作られた集落である。

第四期
 主にニューカマーによって、いわゆる「コリアンタウン」が、現在進行形で形成されている。これは「コリアンタウン」なるものをつくろうという、有力なニューカマーの一定の意図によって形成され、拡大しつつあるものである。
 東京の大久保が典型的なものとして挙げられるだろう。また、姜さんの考えとしては、規模は小さいが川崎の砂子がそれに当たるのではないかという。


□川崎駅前「どぶろく横丁」の形成――一家の生活史から――
 
 姜さんの営む「みよし苑」がある一帯は、現在はタワー・リバークに隣接した、一等地といってふさわしい地区である。しかしそこは、駅前から続く大通りから分岐した小さな道路に面し、再開発から忘れられたように、入り組んだ路地に小さな家屋や店舗がひしめき合っている。
 姜さん一家がここに移ってきたのは、金刺不二太郎が市長を務めていた「1948年か、9年」のことである。市から、それまで暮らしていた、川崎市電の駅前からの立ち退きを指示され、代替地として用意されたのがこの地区である。市電駅前ばかりでなく、駅周辺のいろいろな場所から朝鮮人だけが集められ、それぞれに、土地だけが割り当てられた。広さは五坪、小さな区画では三坪ほどであった。人々はそこに、「勝手にうち建てて、住めちゅうことで、(元の家を)追い出されて」やってきた。上物のない土地に朝鮮人だけが集められ、その地区は今に至っても、地区に面する通りが駅からの大通りから細く分岐した状態であることから、姜さんは、一連の居住地移動は川崎市の差別政策の一環であったと考えている。住み始めた当時、そこは市の土地であったが、のちに市側から払い下げがあり、現在は全て私有地となっている。
 集められた朝鮮人たちは、バラックで家を建て、生計を立てるためにどぶろくを作り、ホルモン焼き屋を始めた。姜さん一家が住み始めた当時は、40軒ほどあった家のほとんどがホルモン焼き屋で、どぶろくも出していたという。姜さんは、「川崎では、どぶろくとホルモン焼きはここが、発祥の地かも分からないぐらい」だと考えている。また、現在は複合娯楽施設「ラゾーナ川崎」がある川崎駅西口にも、20軒程度の「どぶろく横丁」があったという。
 軒を連ねるホルモン屋の、主な客層は、市役所職員、競輪・競馬帰りの男たち、そして肉体労働に従事する人々だった。当時は味の素や明治製菓の工場があり、労働者も多かった。開業当時まだ少年であった姜さんは、どぶろくの値段は覚えていないが、1960年に嫁いできた妻は、結婚当時どぶろくが1杯40円、上澄みが1杯70円、ホルモンが1人前150円だったと記憶している。労働者たちが気軽にやってきて憂さを晴らすのには手ごろな価格だと言えるだろう。
 当時の川崎駅前は、暴力団の事務所もあり、「ヒロポン打ったヤクザが出歩いていたり」する、「今なんか考えらんないぐらい怖いとき」だった。姜さんは、酔ったヤクザが姜さんの父の顔にどぶろくの丼を投げつけたことを覚えている。また、たびたび抗争で発砲事件もあった。
 当然のことであるが、どぶろくは密造酒であるので、たびたび手入れが入った。そのような時、警察へ行って始末書を書いてくるのは女たちだった。男が行けば手ひどい扱いを受けるからである。あるときなど、姜さんの母親が入院加療中であったため、身重の妻が警察に出頭したこともある。
 姜さん一家は、どぶろく作りを1963年ごろまで続けていた。その間に、地区から出て行った人の土地を買い、上物の壁を取り払って家を繋げるなどして、土地と店舗を拡大した。当初、自宅近くの多摩川沿いの土手に家を借りてどぶろくを造っていたが、店舗兼自宅の改装を機に、その二階の天井裏に「どぶろく部屋」を作ったという。ちなみに、その部屋は現在は塞いでしまい、見ることはできない。裏庭に花器台などとして使われている大きな甕が、その時代を忍ばせるのみである。今や、この地区で焼肉店を営むのは「みよし苑」のほか一軒である。どぶろくをやめて正規の焼肉店にしたことや、時代の移り変わり、駅周辺の区画整理などによって顧客も減少し、客層も変わり、今は、たとえば味の素の従業員でも、工場労働者ではなく事務方のホワイトカラー、グレーカラーの人々がやってくるという。
 われわれは、終戦後の一時期、闇市が近辺にあったのではないかと質問してみたが、それについては姜さんは記憶にない。姜さんの考えとしては、そのような闇市があったとすれば、次第に商店街として変化していくので、現在のJRの駅前にあったとは考えにくいという。


□民族教育の変遷
 
第一期
 在日同胞への民族教育の第一期は、在日本朝鮮人連盟(朝連)があった時期、当時の知識人たちによって運営された、「国語講習所」と呼ばれる自主的な教育活動であろう(川崎では、大島小学校の焼け跡に作られた講習所がそれに当たるでしょうか?)。教師は旧制中学校を卒業した人や、そうでなくとも朝鮮語をよくする人で、教材も、教師が独自に作ったものだった。
 在日コリアンは、いずれ祖国へ帰る日のために、朝鮮語を知らない子弟を、母国語を学ばせるために通わせた。
 姜さんが受けた初等の民族教育はこの時期のものである。小学校5年生で終戦を迎え、座間市から、「大塚本町」の「大丸部落」(現在の神奈川県海老名市粕が谷、あるいは綾瀬市寺尾台周辺と思われる)にあった朝鮮語講習所に通った。1947年からは、東京都北区十条にできた中学校(現在の東京朝鮮中高級学校)へ、座間から3時間かけて通ったという。学校とはいっても、きちんとした校舎があるわけではなく、バラック建ての小屋のような「校舎」に集まり、表に椅子を出しての青空授業であった。当時、中等学校には、1年生だけで8クラス、380人ほどの生徒がいたという。

第二期
 1949年、朝連及び民青の解散命令が出され、学校も強制閉鎖された。姜さんによれば、朝鮮学校閉鎖から朝鮮総連の結成される1955年までの間、民族教育はおおむね4つの形態に分けられる。1)第一期に存在した自主学校のうち、教育機関として認可され存続したもの。2)公立学校の分校の形態で母国語教育が続けられるもの。3)いわゆる「ウリマル学級」のように、公立学校の課外で在日コリアン子弟を対象に授業が行われるもの。4)自主学校の形態に回帰したもの。

第三期
 1955年の朝鮮総連結成後、在日同胞が資金などを出し合って創設・運営する自主学校。朝鮮総連系の朝鮮学校が大多数を占める。川崎区の朝鮮初級中級学校もこれにあたる。
 第一期の自主的教育との最大の相違点は、教材が祖国の検定を受けることである。そのため、朝鮮学校は共和国を支持する内容になり、結果的に民族分断の維持にはたらく。


□これからの民族教育
 
 在日三世、四世、五世と代が革まり、またニューカマーが増加する今日、南北それぞれの祖国の意思に縛られない、在日同胞の自主的な民族教育がいかにあるべきかが問われているだろう。
 自主学校がつくられた時期に資金を提供してきた在日同胞の商工人たちも、今はそこまでの余裕がなく、民族学校の教師たちも充分な報酬が得られない。すなわち、新しく何かを作ることは困難なのである。父兄の同胞、ニューカマーの教育者、日本の教育者、有識者などによる運営委員会を結成し、今ある民族教育をどのように変化させ、時代に沿ったものにしていくか、検討されるべき時が来ている。


□姜秀一さんの生活史


両親の来日経緯
 姜秀一さんは川崎駅前の焼肉店「みよし苑」を経営する在日二世である。
 一世に当たる姜さんの父親は、韓日併合(1910年)後の1920年頃、父親(秀一さんの祖父)とともに、済州島から日本へやってきた。併合後、それまで持っていた土地を失い、それを取り戻す資金を稼ぐためであった。秀一さんの父は当時15歳で、読み書きが何とかできる程度だったという。二人は、まず大阪へやってきた。
 当時、日本へやってくる朝鮮人の多くは知り合いを頼ってきたので、何名かの朝鮮人が住んでいた場所には必然的に集住地区が形成されるようになった。そのような集住地区の代表的な例として、現在も日本最大級の在日コリアン集住地区である大阪市生野区の猪飼野と呼ばれる地域が挙げられる。
 秀一さんの祖父は仕事を求めて北海道へ行き、その地で津波によって落命した。秀一さんの父は遺骨を捜しに北海道へ行ったが、ついに見つけることはできなかった。秀一さんの父は大阪で仕事をいくつも経験した後、知人の伝でたばこ専売公社に入ることができ、戦中までそこで働いた。


K:父親が15歳のときに渡ってきたって言いました。15歳のときに。だから、1920年だと思うんですけど。韓日合併があって、10年後です。で、どうして渡ってきたかといいますと、(故郷は)済州島のタイセイ面、ミンジョウ里っつう村ですけど、土地をみんな、なくしたって言ってました。どういうかたちでもって、って、具体的な話、聞かなかったんですけど、それで土地をなくしたもんで、私のおじいちゃんと、私の父親が、何とか土地を買い戻すっていう事で、日本に働きに出てきたそうです。それでおじいちゃんは、北海道で、働きに行って、津波で死にました。で、父親が、その遺骨を北海道まで捜しに行きましたけど、遺骨はありません。ないもんで、父親が、横浜霊園に墓を作るときに、自分の父親がそういう形(遺骨の残らない状態)で死にましたもんで、墓の横に石碑を、遺骨の代わりに建てました。それで(秀一さんの父は)15歳ですから、勉強なんか、ほんとに、学校も、ろくろく出てない。字を書いたりすることはできますけど。それで何とか、一所懸命大阪でいろんな仕事やったそうです。それで、何とか伝を探して、大阪の専売公社、たばこ作る、そこの会社に入ることができたそうなんです。

 秀一さんの母親である尹子生さんは、1912(大正元)年に済州島で生まれた。14歳だった1926(昭和2)年に、叔母に連れられて、既に叔母が働いていた紡績工場で働くために来日した。
 両親が結婚したのは1932(昭和7)年、母は19歳だった。それまで父が暮らしてきた大阪市の難波区で結婚生活が始まった。子どもは最初が女の子、次が秀一さん、その下にさらに女の子2人(3人? それとも末っ子は男の子?)に恵まれた。
 秀一さんが6歳だった1940年、三女を身ごもった母親に、父は故郷の済州島で出産することを命じた。泣く泣く帰国する母親に連れられて、秀一さんも済州島の地を踏んだ。
 ちょうど就学年齢に達した秀一さんは、1年間、済州島の尋常小学校へ通った。すでに日本式の学制が布かれており、日本の教材、日本の言葉での授業であった。
 当時の済州島は地味が痩せ、「粟しか出ない」土地だった。米を口にできるのは正月とチェサのときだけで、秀一さんはチェサの晩、ご馳走を食べたい一心で眠い目をこすりながら深夜を待ったという。


K:私は1回行ってるんです、済州島に。戦争中に6つのときに、1年間。母親が、19歳のときに結婚してね、大阪の難波区で、父親と結婚して、そして、私の姉さん生まれて、私が生まれて、私の妹が生まれたわけですね。で、3人生まれて、お腹の中に私の妹がいるときに、「故郷行って子ども産め」っちゅうことで、泣きながら、母親は、妊娠している状態で、船に乗って、済州島へ行ったわけですよ。そん時私も連れて行かれて。そすと済州島、去年行ってみたら、ぜんぜん変わっていますけど、私の記憶はもうひとっつもないですそこには。で、私が子どものときに行ったときには、1940年くらいになると思いますけどね、あたしが行って記憶があるのが、ボシュウ港っつう港があるんですけど、船がそこに着かないで、沖に着いて、小船に乗って港に着いて、そっから馬車に揺られて、私の故郷へ行った記憶があるんですよ。それでそこで小学1年、そこで過ごしました。もう既にそん時には、あの皇民化教育ですよね。いわゆる日本の先生が、日本の教材使って、やってました。だから朝鮮語は教えてくれなかったですよそこでは。もう既に日本の教育ですよ、学校自体が。でー、済州島は、その当時はあたしが子ども心でも、もう粟しか出ない(農作できない)ところですから、一年中。米を食べられたのは、チェサのときだけです。それでー、もう貧しかったもんで、米が食べられないんで、子ども心に、そん時(チェサの時)にはご馳走出ますから、12時過ぎないと食べられませんから、12時過ぎまでこう、フフフ、目ぇ、こすりながらこう待ってましたよ。


□大戦中の生活
 
 下の妹が生まれ、再び日本で暮らすようになって程なく、太平洋戦争が激化して、戦前から日本で暮らしてきた朝鮮人たちも徴用され始めた。秀一さんの父はそれを逃れるために、大阪から東京の墨田区へ移り住み、靴の修繕をやって生計を立てた 。それでも住民登録をすれば徴用の候補となるので、自ら頭を壁に打ち付けて「頭割って血だらけにして」不適格にしたこともあったという 。
 秀一さんは小学校3年生の時、戦争の激化に伴って、学童疎開で茨城へ行った。ひとつ下の妹も一緒で、寺で集団生活をすることになった。疎開先は食料が乏しく、児童たちがみんなでイナゴを捕り、それを茹でて食べる日々が続いた。秀一さんの母親は子ども達を心配して、疎開先をたびたび訪ねてきて、他の児童のいないところに二人を呼び出しておにぎりなどを食べさせてくれたという。


K:うちの父親が徴用に引っかかるようになったわけです。で、何とか徴用から逃れるために、大阪から東京に、移ってきたみたいなんですよ。変装して、逃げてきて。そいでも一応、住民登録しないと駄目だから、自分でもってね、壁に頭ぶつけて、頭割って血だらけにして、なーんとか徴用逃れるために。それで、墨田区、向島ですね、そこに移り住んで、靴の修理とか、そういう仕事、やってたそうです。そうしたら、この、戦争が激しくなりますね。そいで私が小学校の、3年で、妹が2年。学童疎開になったんですよ、空襲が危なくなって。私が、学童疎開で2人で茨城のお寺へ、私はそういうの(どこのどんな寺だったか)は記憶ぜんぜんないんですけど行って、そこで集団生活しました。で、私は記憶は、子どもん時はね、食べることしか、あんまり記憶がないんですよね。済州島行った時もそうだし。私が学童疎開で食べた記憶は、イナゴしかないんですよ。イナゴ取りやるんです、みんな子供たちが。そいでお寺の釜でね、そのイナゴを茹でるんですよね。で、それを食べるんですよ。ね? 母親は心配して、何とか米、食べさせるやつを作って、持ってくるわけですよ。持ってきても、みんなの前でそれ食べることできないから、私と妹を、山んとこに呼び出して、そこで食べさせるんですよ、おにぎり食べさせたりなんか。

 疎開生活は姜さんが4年生を終える、1945年3月まで続いた。3月10日、姜さんの両親、姉、それに同居していた祖母、従兄の5人が暮らす東京に大空襲があった。幸いにも家族は九死に一生を得、神奈川県座間市栗原に疎開した。そこの農家から、二部屋の小さな家を借りた秀一さんの両親らは、秀一さんと妹を呼び寄せた。さらに畑を借りて、芋やかぼちゃをつくって一家は食いつないでいった。栗原は、厚木飛行場に程近い場所である。疎開してから終戦まで約半年あったが、その間、畑仕事の最中に空襲を受けたこともあった。


K:あの3月10日の、東京大空襲、ありますね? 当時東京で、父親と母親と、私の姉さんと、おばあちゃんと、従兄の兄貴と、5人、住んでて、大空襲、受けたわけですよ。それで、そこでもって九死に一生、生き残って、座間の栗原というとこに、疎開して来たわけですよ。で、座間の栗原っつとこは、厚木の飛行場と、今、米軍の司令部がある座間のキャンプ場のちょうど間ごろです。栗原というとこ田舎ですけど。でそこに、親切な、田舎のお百姓さんが、あの、牛小屋があって、その横に部屋が二つぐらいあって、その部屋二つ貸してくれて、そこに移ってきたわけですよ。それで、そこでもって終戦を、迎えるんですけど、なんにも食べ物ないですから、それで、案外田舎の人親切で、畑貸してくれたもんで、で、畑でもってうちの父親が、かぼちゃとか、芋とかジャガイモとかね、そういうの育てて、何とか食いつないでいったわけですよ。そしたらちょうどね、1回、艦砲射撃(ママ。以下同)受けたことがあります畑で。こうバアーーッと飛行機がね、低空飛行で、畑仕事しているときにね、ボオーンとね、機銃を撃って、もうびっくりしてね、私と父親と、従兄がいましたけど、もう桑畑に入って逃げてね。フフフ、ね? そういう経験もしましたよ。だからあのー、そうなの、艦砲射撃受けて。そしたらボオーンとこう、焼夷弾みたいな穴がね、畑の中に穴開いて。

 終戦の日、秀一さんは畑で近所の人々と一緒に玉音放送を聞いた。秀一さんは、「なんかほっとしたような、解放感つうものを」感じていたという。それというのも、戦時中、子ども心にも「朝鮮人」に対する差別を感じ、「身を縮めながら」暮らしていたためだった。それまで秀一さんは国民学校で教育を受けていたが、戦後は、朝鮮人の有志によって始められた国語講習所へ通うようになった。この点については、秀一さんの民族教育へのかかわりとして後段に示す。
 終戦を迎え、しばらくの間、秀一さんはお菓子を手に入れたい一心で、キャンプ座間で米兵の靴磨きなどをしたこともあった。米兵のくれるガムやチョコレートは子どもには嬉しい物だった。


K:ちょうど田舎の、畑(仕事)があってるときに、ちょうど玉音放送聴きましたよ。みんなあの、聞いてて。そこ、私の記憶ではね、日本の方、泣かなかったですよ、そん時の。飯島さん(家を貸してくれた人)とか、フッ、数人、ハッハッハ。ねえ? で、私なんかも、これねえ、血が、そういうもんですねえ、あれね。なんかほっとしたような、やっぱ解放感つうものをね、感じてましたねえ。あの、戦争中に、朝鮮人つうことで、常にもう、身を縮めながら住んでたもんですから、差別の中で。だから、そういうので精神的な解放感ですね。まあそういうのはすごくありましたね、子ども心で。(中略)で、戦後、私、経験してるのは、座間にキャンプ場ができたときに、私も子どものときに、シューシャンボーイやりましたよ。米軍の靴、磨くんですよ。そうすとね、みんな迎えにくるんですよ、ジープが。そいで、田舎の子供たち、もうー、そん時ね、もうチョコレートくれるし、ガムくれるから、ね? 喜んで行くんですよ。僕なんかもそん時にね。そんで大きなトラックね、(秀一さんがまだ)ちっちゃいからね、こう、飛び乗れないのね。そいでキャンプ場行ったら、米軍の靴こう磨くわけですよ。やると、チョコレートくれたりするわけですよね。チョコレートなんて、あんなのがもう初めてですからね。
 

□どぶろく・ホルモン屋で生計を立てる

 
 終戦から3年が過ぎた1948年、一家は川崎市へやってきた。座間では仕事がないので、仕事を求めての移住だった 。当時運行していた川崎市電の駅前のバラックを買い、そこで母はおでん屋、父はヤミタバコを作る商売を始めた。父がタバコ専売公社に勤めていた伝でタバコの葉を手に入れてきて、それを刻み、機械を使って紙で巻く。秀一さんもそれを手伝った。当時タバコはたいへんな貴重品であり、秀一さんは、キャンプ座間でシューシャンボーイをやった際に、米兵の捨てたラッキーストライクを拾って小遣いを稼いだり、吸ってみたりしたこともあったという。


K:で、そういう中で、結局は、結局は、やることないもんで、この、(川崎)駅前、今でいう東口。そこに、部屋が三つぐらいあるバラックがあって、その一つを買って、そこに住んでて。父親が、タバコ工場(こうば)で勤めてた関係で、紙タバコ、作って売ってた。ヤミタバコですね。でそこで私も手伝いましたけど、タバコ作る。あれ簡単なんですね。タバコの葉っぱだけ買ってきて、そで紙で、タバコの葉っぱを入れて、巻く機械があるんですよ。糊をパッて貼って、巻くとね、タバコできるんですよ。で、タバコが貴重な時期ですからね、私なんかもアメリカの、子どもの時、もう戦後何もないときですから、モク拾いなんかやりますからね。あの、米軍の落とした、あの、いやラッキーストライクなんかっつうのはもう、すごい高価なやつですから、子ども心にこう、拾って、吸ったこともありますけどね。

 市電駅前に移って8ヶ月ほど過ぎた1949年、姜さん一家が暮らすバラックは立ち退きを命じられ、市が用意した代替地である、現在のJR川崎駅と京浜急行川崎駅の間の地区に住み替えることになった。代替地といっても1区画3〜5坪の土地があるだけで家はなく、しかもその地区には、駅周辺の地域から朝鮮人だけが移転させられ、集められていたのである。その数は40世帯ほどだったという。
 姜さんは、この移転命令は川崎市による在日コリアン差別政策であると考えている。当時開発も進んでおらず治安の悪かったこの地区に、在日コリアンを集めて「隔離」しておこうという考えがあったのではないかと見ているのだ。
 この地区は今に至っても、地区に面する通りが、駅からの大通りから細く分岐した位置にある。細かい区画ごとに地権者がおり、借家にするなどの形で地権者自身が住んでいない区画も多く、地上げが横行したバブル期も、再開発の進む現在も、周辺の開発から取り残されたように小さな路地が入り組んだ一帯となっている。


K:私は、この部落の形成はね、たいへん差別的な部落の形成だと思ってるんですよ。どうしてかっつったら、いわゆる金刺市長時代に、川崎市内に、朝鮮の人が住んでて、立ち退きさして、ここにみんな集めたわけですよ。いろんなとこから。朝鮮人だけを。(それまで住んでいた)うち、駅前は三軒でしょう? 他の人たちはどっから移ってきたか分からないちゅうわけです。みんなやっぱり焼け野原の中から、移されてくるわけです。ここに。悪いこといえば、差別的な隔離政策でここに、集めたんじゃないかっつう気がするんですよ。
P:それ、年で言うと何年くらい?
K:えーっと年代的に言うと(・)えーとここへ来たのがねえ、えーと、移ってきたのがーー、40ーー、8年? か49年ぐらいだと思いますけどね。
M:要するに、駅前に住んでたところの代替地で、ここに住みなさいっていう、
K:ことで、移されてきたわけですよ。
M:それがこの、5坪とかっていう、
K:みんな5坪です、始めは。ここ(秀一さんの家)今、18坪ぐらいありますけど、これ、後で、隣に住んでる人たちが、もうここに住むのいやだから売るっちゅことで、それで一つ一つ買って、今、18坪になってますね。
P:そん時朝鮮人どのくらいいたの?
K:もう40軒くらいあったんじゃないすかねえ。みんな5坪ずつ。まあ3坪のとこもあるし。みんなこう、突っ込んできたわけですよ。朝鮮人ですから、みんな。そういう方たちを集めたわけですよ。移ってきたって土地だけくれたもんですからね。代替地で、市の土地。市が、みんなここに5坪ずつやるから、ここに勝手にうち建ててもう、住めっちゅうことで、追い出されて来てるわけですよ。そいでみんなバラック建てて住んだわけですよ。

 こうして作られた新たな“朝鮮部落”で、在日コリアンたちは生活のためにどぶろくを密造し、それとホルモン焼きを出す店を始めた。秀一さんの家も含んで、この地区に暮らす家のほとんどがどぶろく・ホルモン焼き屋を営んでいたという。
 軒を連ねるホルモン屋の、主な客層は、市役所職員、競輪・競馬帰りの男たち、そして肉体労働に従事する人々だった。当時は地区の近くに味の素や明治製菓の工場があり、労働者も多かった。
 当時、地区周辺には暴力団の事務所もあり、「ヒロポン打ったヤクザが出歩いていたり」する、「今なんか考えらんないぐらい怖いとき」だった。姜さんは、酔ったヤクザが姜さんの父の顔にどぶろくの丼を投げつけたことを覚えている。また、たびたび抗争で発砲事件もあった。「格好なんかついて、生活できるような時代じゃな」く、食べていくために必死で商売をしていたという。


K:そこで始めたのが、どぶろくと、ホルモン焼き作ったんです。当時、みんなやってました。この床屋さん(隣家)もやってましたよ。それで前にビル、3軒ありますね? あそこもみんなホルモン、どぶろくやってました。この突き当りの大きな建物ありますね? あそこも、横も。うちもやってました。それで、川崎では、僕の考えでは、どぶろくとホルモン焼きはここが、発祥の地かも分からないぐらいだと思うんですよね? 
P:40軒ぐらいあって、みんなどぶろく屋で、どういう人が飲みに来たんだろう。役所の人が多かった?
K:役所の人、フフフッ、まず、競輪競馬のお客さんとか、
P:あ、その頃もう、競輪競馬始まってた?
K:始まってました。それが金刺市長時代の、当時の唯一の財源じゃなかったんですか? とか、あとは労働者ですね。労働者で。ねえ。……私もどぶろく作りましたよ。もう子どものときにやりましたから。(家の)裏に2つありますよ、大きな、甕がありますよ、どぶろくする。
(中略)
M:(店の)表はどういう感じなんですか。看板とかはないんですかね、
K:ええ、赤提灯。ええ、そうすとねえ、この辺の部落は怖くて、そん時は。今なんか考えらんないぐらい怖いときですよ。もうねえ、ヒロポン打ったヤクザが出歩いてたりね、もう大変ですよ。酔っ払って来てね。一度、あの、私が目撃したのは、ヤクザに、丼、投げられて、うちの父親の頬に当たったり。だからそん時は、もう生きるか死ぬかの商売ですよ。あーんな、格好なんかついて、生活できるような時代じゃないじゃないですか。生き残っていくのが、もう、そういう時代ですから。

 1960年、秀一さんは結婚した。妻は5歳年下の在日コリアンである。結婚後、夫妻は秀一さんの実家で生活し、家業のどぶろく・ホルモン屋を手伝った。どぶろくは当初、自宅から離れた場所に小屋を借りて造っていたが、やがて、集住地区から出て行く隣人たちから土地を買い、家をつなげて、店舗兼自宅の2階部分で造るようになった。
 どぶろくを造っていた在日コリアンの多くが体験したように、姜さん一家の店にも密造酒の取締りの手がたびたび入った。そのような時、警察に行って始末書を書いてくるのは必ず女性だった。男性が行けば手荒い扱いをされるからである。基本的には秀一さんの母が出頭していたが、一度、母親が入院しているときに取締りが入り、やむを得ず、当時身ごもっていた妻が出頭した。まだ若く、結婚するまでどぶろく家業に関わったことのなかった妻は、ほとんど訳のわからないまま警察へ出頭することとなり、非常にショックを受けたようだ。
 近年、韓流ブームの影響で、日本国内でも合法的にマッコリが売られるようになり、焼肉店などではよく飲まれているが、妻はどぶろくにまつわる苦い思い出から、マッコリを店で出すことを嫌がり、ごく最近まで入荷しなかったという。
 姜さん一家は1963年ごろにどぶろく造りをやめ、密造に使っていた部屋もその時に塞いでしまった。どぶろくを仕込んでいた甕は、現在は自宅の裏庭で花器台にしているが、本調査を行った際、それを見た高麗博物館館長の樋口雄一氏が、博物館への寄贈を打診していたので、歴史資料として博物館に置かれる日が近々くるだろう。


K:だからうちのやつ(妻)、なんにもわかんないで、1回、警察に引っ張られましたよ。
妻:おばあちゃんが入院してた時だよ。長女を身ごもってたとき。「女が行かないとだめだ」っつって。
K:ハハハ、だってね、男行ったら、やられちゃうから。
妻:泣いて帰ってきた、
K:ハハハ、おばあちゃん入院してるから、うちの父親が「お前が行け」っつって、行って、始末書書いて戻ってきて。始末書だけね? 手入れしょっちゅう来ますよ。隠し部屋作って、隠れて造って。密造酒っていうのは。手入れ食いますからね? (中略)戦後から50年代、で、うちの、家内嫁にきて、63年ぐらいまでやったんじゃないですか? それでうちを建て替えて、これ建て替えると同時に、どぶろくをやめて、正常な、焼肉屋っつうことで。その当時も、ホルモン焼きはやるけど、どぶろくは一切やらない。だからうちは、家内今でも、どぶろく出すの嫌いなんですよ。もう、1年ぐらい前までは「マッコリ入れる」っつったらもう「いやだ」って、「どぶろくいやだ」って。懲りたから(笑)。昔のイメージがあって(笑)。「どぶろくなんてねえ、あんただめよ」って。ところが今はもう、うちのお客さんやんなんかみんな韓流ブームでマッコリ飲む。マッコリ好きでしょう? 今。でもうちのやつはね、もーのすごい抵抗感があって、1年ぐらい前まではマッコリ絶対入れようとしなかったですよ。私、「入れろ」つっても、「なによ私、もう、どぶろくなんか嫌い」っつってもう、絶対入れようとしないもん。


□民族教育とのかかわり
 
 終戦は植民地の人々にとっては「解放」であった。徴用や強制連行などで日本へ来た外国人には、計画帰国によって帰っていく人も多かったが、さまざまな事情で日本に留まった人も多かった。姜さん一家も帰国はしなかった。
 戦前や戦争初期に朝鮮から日本へやってきた親のもとに生まれた子どもたちには、母国語である朝鮮語を知らない子どもも多かった。そのような子どもたちのために、朝鮮の知識人などが朝鮮語教育を行なう、「国語講習所」と呼ばれる自主学校が各地で生まれた。今は日本で暮らしていても、いずれは母国へ帰る日がくる、そのときのための母国語教育であった。
 終戦まで国民学校に通っていた秀一さんは、父の勧めにより、終戦直後に「大塚本町の大丸っていう」朝鮮人集住地区にできた国語講習所に通った。1947年には、在日本朝鮮人連盟(朝連)により、東京都北区十条に現在の東京朝鮮中高級学校(以下、東京朝鮮学校と略記)が創設され、ちょうどその年中学生になった秀一さんは、座間から3時間かけて東京朝鮮学校へ通ったという。


K:私も、戦後にいち早く、座間で終戦迎えたときに、大塚本町の大丸っていう部落の中に、教室、2つぐらいで、当時の知識人ね? 知識人つったって、だいたい、旧制中学出た人は、もう当時は相当のインテリですから、そういう人たちとか、ちょっと、朝鮮語知ってるとか、そういう人が先生になって、朝鮮語教えましたね。46年に、うちの親父が、そこ行って朝鮮語習えっつうことで(通うようになった)。当時は、いちばん最初、川崎もそうですけど、国語講習所っていう事で、(民族教育が)始まりますけど、これは、みんな目的は何かっつったら、戦後すぐ、いわゆる帰還事業、自分の故郷帰るために、子どもたちが日本の教育うけてて朝鮮語分からないから、教えて連れて行かなきゃいけないっつうのが、民族教育の始まりなんですよね。(中略)私はあのー、東京に47年ですか、東京に中学できますね。十条に。そしたら、うちの父親が「そこの学校行け」っつって、私、いちばん最初、創立した、東京の中学校に通いましたよ。3時間かけて。朝の6時ごろ、くらーい時に、あの栗原の田舎から、あの、座間の駅まで歩いて行って、30分。で、座間から小田急線乗り換えて新宿行って、行きましたよ。

 当時の東京朝鮮学校は生徒数がひじょうに多く、秀一さんの学年は、1クラス60人近くで、男女別に8クラスが編成されていた。教師にも特に資格が必要だったわけではなく、それぞれの知識によって生徒たちを指導した。教材も検定などを受けず、朝連の知識人たちが自主的に作ったものであった。立派な校舎もなく、外に椅子を出しての青空教室も行なわれるほどだった。
 1949年、GHQの指示により、朝連は解散させられる。各地の民族学校は、多くが閉鎖に追い込まれるが、秀一さんの通っていた東京朝鮮学校は都立学校として存続した。秀一さんは高校卒業までそこに通って民族教育を受けた。
 閉鎖された学校も、公立学校の分校や、課外で母国語学級を開く、自主学校に回帰するなどのかたちで民族教育を続ける所が多かった。課外の母国語学級は、現在でも大阪などで「ウリマル学級」として見られる形態である。


K:朝連の時代の教育っつうのは、先生も、いろんな人が集まってるし、私が中学入ったときには、1年生の生徒数だけでも、8クラス、男女別々で、380人いましたからね。すごいですよ。もうーー、東京から関東からね、みんなやはり通ってきましたよ。で、校舎なんてないから、青空教室で、椅子持ってきて、あの、青空教室で。そんなことで中学校も始まりましたよ。で、先生はね、大体見ますと、旧制中学出たとか、日本の大学への留学で、来てた人とか、そういう人たちが、先生になってました。朝連の時期はそういう形で、最高の生徒数ですよ。始めはね。これ、朝鮮戦争までですね。だから45年から5年間は、もう学校自体は、みんなぼろですけどね、ほんとのバラック建てで、そういう時代でしたけど。その当時の教材は、朝連が作った自主教材でやってましたから、国家的な統制がないわけ。もう僕なんか通ってた時は、先生なんかも自分の知識でやりますから、日本の教育受けた人はね、たとえば、話するときはね、『モンテ・クリスト伯』とか、『ああ無常』とか、こんな話もしますしねえ、いろんな自分の知識を語りますから。ね? 
 で、これが49年に、朝連が解散して、学校が閉鎖になりますね。そして総連が結成される以前は、学校の形態がね、4つぐらいあるんですよ。ひとつは自主学校として残っているやつがあるし、で、私が通ってた東京中は都立でしょ 。で、関東はだいたい公立が、川崎も確か一時公立になってて、分校になるですね。あとはね、午後の教室っつうことで、日本の学校に通ってる。午後になると、朝鮮の子どもたち集めて、朝鮮語教える。こういう、
P:うん、ウリマル学級って言うのがね。大阪にはまだ残ってるよ。

 1953年、東京朝鮮学校の高級部を卒業した秀一さんは、日本の大学への進学を考えていたが、広島県安芸郡海田町にある自主学校から、教師として働くことを要請され、広島へ移り住む。1950年に勃発した朝鮮戦争のため、日本国内、とくに地方では、民族教育を担う教師の人材が不足しており、東京朝鮮学校で最初の高級部卒業者のひとりである秀一さんは有為な人材として誘われたのだ。
 海田は土木作業に従事するために朝鮮人労働者が多くやってきた地区で、彼らが生活する飯場がもととなって形成された集住地区である。海田の自主学校は、教室が3つの小さな校舎で、当時はまだ初等教育のみが行われ、教師は秀一さんを含めてわずか3名だった。秀一さんたちは複式授業で児童たちを教え、また、中学校に相当する教育部門をつくるための運動にも携わった。
 秀一さんは3年間、広島の学校で教師を続けたが、1956年に東京朝鮮大学校が創設されたのを機に、進学のために帰郷した。
 海田の朝鮮学校(のちの広島朝鮮中高級学校)は、現在は廃校になり、広島市東区の広島朝鮮学園に統合されている。

P:姜さん自体は川崎だとか横浜の民族学校つくるとき、なんか関わったってのは、
K:私、高校出た後、3年間広島で、先生やりました。そん時には、先生がいないもんで、そいで私が(民族学校をつくる運動に)関わったのは、そこで中学作るとき関わりました。同胞の力でもって。でー、どうしてかっつったら、私が1952年(度)、朝鮮戦争真っ盛りの時に卒業して、そいで、日本の大学に進学するか(と考えていたが)、戦争中ですから、当時学校の先生が地方でいなくて、来てくれっつう要望がたくさんありましたもんで、それで、高校卒業して、で、私が安芸の朝鮮学校行ったときには、安芸の部落、いわゆる、まあ飯場ですね。の、まん前に、3つ教室があって、学校の先生が3人おりまして、複式授業です。
P:安芸っつうのはあの、広島の安芸?
K:そうですそうです。いや、海田市(かいだいち)っつうとこですけど。56年まで、3年間そこにいましたけど、そん時の学校つうのは、まあある面で学校の形を成してないですよ。複式授業で、(秀一さんは)高校しか出てないですけど、そいで学校の先生3人で。まあ朝連の時代の自主学校の延長みたいなもんで。当時は絶対的な、教育者は、不足の時代ですから。そいで、日本の大学出た方は、小学校のそんな複式授業の先生、やりませんからね。で、中学できたり、高校できて、日本の大学出た人が、民族学級の先生に移ってくる人もいましたね。中学とか、高校できると、やっぱり、大学教育受けてないと教えることができませんから。私はそこ、広島、おりまして、あの、朝鮮大学が56年に創立したときに入学したんですよ。第一期生ですよ、私、朝鮮大学の。

 1955年に朝鮮総連が結成され、一時閉鎖された学校の復活などのかたちで朝鮮総連系の民族学校が作られていく。東京朝鮮学校も、総連系の組織である学校法人東京朝鮮学園の運営に変わった。総連系の民族学校での教材は、母国である朝鮮民主主義人民共和国(以下、「共和国」と略記)の検定を受けたものになり、教育内容も共和国を支持する色合いが濃くなる。姜さんは、それが民族の分断意識を維持・再生産するものであると憂えている。
 朝鮮大学校卒業後、姜さんは民族運動や共産党員としての活動に携わってきた。しかし、それらの点についてはまだ「語れない」ということで、知ることはできなかった。
民族教育、民族運動に携わってきた姜さんは、子どもたち(二男一女)も民族学校に通わせた。


□故国との関係
 
 前述したとおり、秀一さんの父親は、済州島の土地を取り戻す資金を稼ぐために来日した。父は少しずつ土地を買い戻していったが、来日以来、一度も帰国しないまま他界した。また、その土地も、韓国にいる親戚を名乗る人物が、日本で暮らす秀一さんの父の代わりに土地を管理するからと、委任状を取って行ってしまい、場所も分からない。
 秀一さんは、土地そのものがほしいというわけではないが、父が一所懸命に買い戻した土地が「どうなってんのか」、先祖の墓がどこでどのようになっているのかは知りたいと考えている。また、日本で生まれ、韓国籍をもつ子どもたちを、故郷の戸籍に入れなければならないという事情で、妻と長女、次男を連れ、2006年に済州島を訪れた。
 現地で出会ったタクシー運転士が案内してくれたことで、戸籍の問題は解決されたが、2泊3日のスケジュールであったので、土地を見つけることはできなかった。また、長男がまだ戸籍に入っていないので、それらのためにまた済州島へ行き、今度は時間をかけて、父の買い戻した土地と、先祖の墓を捜すことが「老後の過程の中の、ひとつの課題」だという。


K:一所懸命働いて、金を貯めては、少しずつ土地を買い戻していったそうです。それからうちの父は83歳で亡くなるまで一切韓国帰ってませんから、うちの母親も済州島(父の故郷)行っていません。ええそれで、その前(父が他界する前)に親戚が来て、その、土地、墓を、向こうの先祖の墓を管理するから、土地を管理する委任状くれって言って、うちの父親は委任状、親戚に渡したそうなんです。現在あの、近い親戚がいないんです、済州島に。そいで去年私が、済州島に行ったんです。で、いちばん最初の目的が、私の子どもたちが戸籍に入っていないもんで、(父の)孫。で、私の、嫁に行った娘が、だんなさんは慶尚道の方なんで、「お父さん、やっぱ私も、だんなさんの、そこに戸籍入れないといけないから、私を済州島の戸籍入れるようにしてください」と、いうことで娘と、それで私の、2番目の息子は、韓国の方と結婚してます。それで、私の2番目の息子と、娘と、私と妻と、去年10月に、2泊3日の、ツアーで行って、あとは向こうで自由にやるっていうので、タイセイ面の役場に行って。で、それで戸籍入れてきたんですよ。それで精一杯で。親戚っつっても、朝鮮で言えば、韓国でいえば、ファッチョンとかシッチョンだから、もうこれは顔も知らないし、捜すのもたいへんだしね。だから、サチョンまではね、あの、いとこ同士までは分かりますけど、もう既に、韓国の親戚つってもね、もう遠い親戚だから。で、土地を管理してるっつう人ももう死んだそうで、探すのだってもう1週間ぐらい行かないと分からないし。

K:親切な運転手さんがぜーんぶ案内してくれましたよ。戸籍のある、面の事務所まで。2泊3日で帰ってこないと駄目なの、とんぼ返りで。で、戸籍はもう、ちゃんと入れてくれましたから、まあ、第一の目的はもう達成したから、今度行くときは、まあ1週間から10日くらいかけて行って、先祖の墓も探さないと駄目だし、私の父親、一所懸命苦労した土地も、どうなってんのかも。でも、私なんかはね、ええ、先生ね、あんまり、ぴんと来ないんですよ。父親たちが土地、まあいいや、済州島の土地なんか、誰が持って行ったってもう、たいした土地じゃないし。都会の一等地のね、もう何千万何億する土地でもあるまいし。そんなそれ、必死になって土地、探すっつ気持もないんですよ。まあ親戚が持ってきゃいいだろうというぐらいの考えしか今、ないですね。でも一応まあ、私生きている間に、息子と、まだ長男行ってないもんで、将来的には長男連れて行って、向こうの親戚も一応捜してみて、先祖の墓も探してみて。ま、それが私の、残された老後の過程の中の、ひとつの課題だと思ってますけど。


□後の世代への懸念
 
 日本における“朝鮮部落”や在日コリアンの変遷を見るに、秀一さんは、在日コリアンがどんどん「バイタリティ」を失っているという懸念を抱いている。戦前戦後を、何の財産も、保障ももたない中で生き抜いてきた力が、代を経るに従って失われ、ニューカマーのバイタリティに圧倒されているように感じられるようだ。たとえば、焼肉店といえば在日コリアンが営んできた商売の代表的なものだが、今はむしろニューカマーの韓国人たちが作る“コリアンタウン”の勢いの影で、昔ながらの在日コリアンの焼肉店が続いていかなくなっていることも見受けられる。秀一さんの姉は新大久保で焼肉店を営んでいたが、大久保にコリアンタウンが形成された影響から客足が落ち、店をたたんだという。

K:今、私の考えでは、第四の部落形成で、これが、新しいコリアンタウンですね。新宿の大久保とか。これは、現在10万近くだっていわれていますけど、新・在日同胞って言いますか、いわゆるニューカマーといわれている人たちが、あれしてますね。えー、だから私が川崎ずっといますと、セメント通りでコリアンタウン、一時やろうとしたけど、駄目ですね。在日の同胞たちがやろうとしたやつは、失敗してますね。でむしろ、今、いわゆる、新しいコリアンタウンとして、まだ、名前が付いてないですけど、あたしにいちばん近い場所ですから、いわゆる、韓流ブームの中で砂子通り、あの辺一帯が、実際的には、もう私の考えでは、新しいコリアンタウンが形成されていると、川崎では。あたしはそう見てますね。むしろそこの方が、活力があります。在日の一世二世は、もうすでに活力なくしてる、生活の中では。私の姉、新大久保で焼肉やってましたけど、もう今年つぶれましたよ。やっぱ大久保通りの、新しい、いわゆるコリアンタウンの流れには、在日の方がやってる焼肉屋、太刀打ちできないです。それでつぶれました。新大久保の駅のすぐ前に焼肉屋、ながーい間やってましたけど。で、当時、焼肉屋やってたときは、新宿とか、そういうとこで、いわゆる、コリアンクラブで働いてた女の人たちが、夜、だいたい2時3時ごろ、みんな来てましたよ。ところが今、そこへ行く必要がないんですよ。今までの在日同胞がやっている焼肉屋に行く必要もないし、自分たちでもう既に、そういう店開いてますから。大久保通り行きますとね、新しい。むしろその方が活力ありますね。新しい、いわゆるタウンとしては。だから在日同胞の焼肉屋とか、段々落ち目になってきましてね、ここ自体が。戦後ずっと私が育ちながら、在日同胞の生活見てまいりますと、まあそういうことを、今、感じますね。

 また、秀一さんは自分の子どもたちの「老後」にも危惧を抱いている。戦争を知っている在日コリアンに無年金者が多い中、「勤め人」をやった秀一さんは、厚生年金を受け取っている。しかし、子どもたちは、職を得てはいるが「一流の会社でもないし」、自ら稼ぎの道を切り開いてきた一世世代に比べると、サラリーマンとして日本社会の目立たぬ場所で細々と生活しているように見えるものと思われる。

K:だから、私は在日の二世ですけど、二世までは長く頑張りますけど、だいたい三世になりますと、もう一世の、そういう、私の父親とか母親が、何もない中で戦前戦後生き抜いてきた、そのバイタリティはなくしちゃって、もうね、三世ぐらいになると。むしろ二世の中では、一世が築いた財産をみんなふっ飛ばしてる奴、たくさんいますから、もうそれを食い潰しちゃって、いる人たくさんいますからね。で、三世になってくるともう、一世のそういうバイタリティなくして、何とかその遺産を食いつないでいるような格好じゃないですか、今ね。あとはもうサラリーマンとか、そういう形で行きぬいていってるのが、現状じゃないかな、と私は今、考えてます。だから、私はむしろ、息子とか孫なんかには、将来に対する不安を感じていますね。まあ私の時代までは何とかやってこれたけど、子供たちね、こう見てますと、まず働いている会社が一流の会社でもないし、ちゃんとした会社じゃないですから、厚生年金なんか入ってませんからね。老後のねえ。私はまだ、年金あるんですよ、厚生年金。勤め人をやりましたから、ありますけど、私の子どもたち、「将来不安だから、国民年金ちゃんと入っとかないと駄目だよ」って、「お前、老後になって惨めになるよ」っつっても、零細企業とか、そういうとこで努めてる人は、厚生年金にも入らないんですよ。うちの長男は、パチンコ屋の店長やってますけど、現在の収入は多いんだけど、そういう、日本の遊興、やってる人だって、会社組織で、厚生年金ちゃんと作ってやらないから、ね、どうしてもそういうところやらないから。国民年金は入ってますけど、保険だって、国民保険ですから。そういう人たち多いですよ。だから、私の子どもたちの老後がむしろ不安ですよ。私まではよかったけど。フフフ、私はまだ細々した年金で、こういう、父親が残してくれた財産で、細々と続いてますけど。そういう現状だと、私ら、認識しているんですよ。在日同胞社会のね、まあ将来像としましては、たいへん、あんまり明るい、私ら、見通し持ってないんですよ。たいへん不安な。



戻る