飯島善蔵氏、松子氏
1989年2月18日に、お二人には一度聞き取りをしました。その時の資料を基に、補足していただきました。
群馬では、たいへん貧困な生活を送りました。姉4人はいわゆる身売り、ご自身は7年間の丁稚奉公(給料もなく仕事場に仕える)をした貧困生活の経験か「反権力」意識を醸成したとおっしゃいます。
21歳で徴兵検査、国内に従軍しました。
□昭和26年5月 善蔵氏単身川崎へ
戦後の昭和23年日本共産党に入党します。朝鮮戦争時、朝鮮半島でマッカーサーを撃退した解放軍が、日本を解放するために、やってくるかもしれないという期待感をもって、ラジオに聞き入ったという記憶が鮮明だそうです。冷戦から朝鮮戦争勃発 1950年(昭和25年)。GHQのレッドパージ攻勢という歴史の流れの中で、昭和25年 群馬で中島飛行機の関連会社を解雇されました。半年間失業保険期間中、東京などで反戦活動をしたが、食っていけなくなり、26年5月群馬の朝鮮人の仲間から、知り合い(桜本の金子さん)を紹介してもらって、家族を置いて仲間4人と単身川崎へやってきます。
そこで、金子さんから仕事を紹介してもらったが、仕事はきつく、いっしょにきた4人の若者は、みな群馬に引き上げてしまったそうです。
□ 昭和26年秋
家族を呼び寄せたく、住むところを金子さんに相談したところ、朝鮮の部落を世話してくれました。当時、月7000円くらいの収入で、朝鮮の部落の1室の権利を1万円で譲ってもいいという話で、即決。6畳位の空間と6畳位の土間、トイレ、水道は屋外の共同。傘を差しての用足し、屋外水道ひとつを交代で使用しました。鋼管の敷地なので、水道電気代はなし。
□ 生活の様子
入江崎部落には、朝鮮人60世帯、日本人8〜10世帯が住んでいました。さらに海よりの先には日立造船部落、20軒くらいの集落がありました。朝鮮人住民のバイタリティーあふれる生活力に助けられました。お祝い事でご馳走になったり、キムチ、どぶろくなども教わったり、もらったりしました。空き地で米、唐辛子など収穫し、塩浜で貝拾い、鉄くづ、焼夷弾あつめ、工場の船の鉄、貝落とし修理、薪拾い(海へ)(料理用)コークス拾い(トラックのあと)など、松子さんは教えられるままに働きました。水道で牛の内臓洗い(ひもとかとんちゃんとか言った)があると、水道がなかなか開かずに、使えません。どぶろくの摘発で、税務署もきたことがあります。部落で一軒作っていましたが、みんなが守って、どぶろくを捨て、飼ってた豚が捨てたどぶろくを飲んで、税務署がついた時は酔っ払った豚しかいませんでした。
朝鮮あめやもやしを売りにきたりもしました。村の結婚式では、料理が並び、3日間も宴会が続きました。正月には20人ぐらいの若者が、楽器を鳴らして家々を回り、米やお金をもらって回るお祭り騒ぎがありました。配給米は中島のほうに取りにいきました。担ぎや(闇や)をする人もいて、買おうと思えば部落で米が買えました
読み書きができるので、近所の人に頼りにされました。郵便局もよく配達先を聞きに来たし、警察なども情報収集にきましたが、部落の人の結束と利益を守りました。
□昭和28年ごろ 日朝協会入江崎支部結成 立ち退き反対闘争
立ち退き問題が、川崎南部の随所で起こっていました。入江崎の部落も来そうな情勢がありました。石炭の山から鋼管の幹部が弁護士と部落を見渡していました。日本人住民は、最近来て住んでいるのでそんな権利主張などおこがましいといった空気があり、1,2万でももらえればすぐ出て行きますよという雰囲気でした。朝鮮人は、当然、歴史的に働かされてきた経緯があり、権利主張をしようという状況が強くありました。「朝連」の幹部(崔さん)がオルグにきました。励まされるように、あなたたち日本人も貧困の中、住居を主張する権利がある、いっしょに闘おう、日朝協会を結成しようというふうになっていきました。日朝協会入江崎支部の結成会、選挙で飯島善蔵が会長、副会長に日本人住民の長老格と朝鮮人住民の長老格が選出されました。しくまれていたように、飯島さんが選出されました。朝連幹部に連れられて、日朝協会川崎支部の会合に行きました。それまで、上部団体があることも、力になってくれることも知りませんでした。旧こみや近くのお寺で、日朝協会川崎支部の会合に呼ばれました。社会党中島秀夫氏、高橋健太郎氏という市議会議員など、偉い人たちがいて、朝連幹部が経過説明、会長、副会長は、他に住むとこがない、よろしく頼みますなどの嘆願程度を訴えました。「日朝協会の名を立ち上げたなら、支援しないわけにはいかないな」といわれました。後日1回だけ、金刺市長の面会がセットされ、一張羅を着込んで市長面会しました。私(飯島)が31歳のころで、「青年将校がきたか」と市長に言われたことを覚えています。
その後は、朝連の方か、川崎支部のほうで段取りよく進め、立ち退きを妥結。1軒30万〜35万円ほどで公平に分配されました。畑があるとか、家族が多いとかで多少の増減をつけましたが、苦しい人にもきちんと保障すべき、来たばかりの人も同じように困っているとみんなをまとめて配分してくれました。私も30万円もらいました。他の地域の立ち退きでは、ごねどくと居座る人が出たり、一部の人がたくさんもらって、日本人や来たばかりの人には、少ししか渡さないなどのことがあったようです。入江崎支部は立ち退き闘争の模範のように言われました。昭和31年には立ち退きが完成しました。入江崎を立ち退いた30軒あまりは、味の素のほうの部落に移っていきました。私は30坪くらいの池上新町の現在の土地を21〜22万円で購入し、家を建てました。立ち退きで、入江崎支部は自然解散しました。
笠原儀一氏
□ 昭和23年 川崎へ 22歳。
正月に群馬県から今住んでいる池上新町に建売を買ってすみました。義理の兄をはじめ、親族に日本鋼管の役付きがいて、そのツテで23年に来てすぐ入社できました。(日本鋼管の社長も群馬出身) 今思うと建売は高く、24万もしました。(6畳と3畳 二間しかなかった。)
現場仕事に行ったら、大変で、こんなところにいられないと一度群馬に帰えってしまいました。今鋼管に入っとかないと、はいれなくなると親族に説得され、9月まで群馬の田舎にいたが、その年の9月に川崎に戻って、再度、鋼管で働きました。コークス工場配属1300度の高炉、大島工場で働きました。
昭和28年2月10日結婚。
昭和29年扇島に配転する話が来ました。共産党やめれば、役職にするという話がありました。しかし、その当時は、私は共産党に入党していません。組合では、社会党と共産党といっしょにやろうという方針で、同志会を結成して、労働組合活動を行っていました。昭和30年ころ、私は事務局長の肩書きでした。
□ 朝鮮人差別 レッドパージ
入社した昭和23年ころ、レッドパージが始まる前は、2名共産党員が組合にいました。共産党員がいなくなったらだめになると考え、レッドパージされた労働者を守衛をごまかして、食堂に入れて飯食わせたりしました。レッドパージ後、3人の党員が入りました。
レッドパージの時、鋼管の中が中心。300人くらいいました。パージされた人が食堂に行くのに手伝いました。大島のほうは、金網張って入れないため、セメント通りのほうから入って、食堂に入れてあげて召し食わせました。
当時、会社のコークス工場には、全体600人の労働者が働き、朝鮮人は6〜7人いたかな。下請け北島商店からの人夫としていました。会社が朝鮮人はいっしょに風呂入れないなど、差別していました。
戦争中の朝鮮人のお骨が、高炉のコークスを冷やしたノロの捨て場(トロッコみたいなのにコークスを水で冷やし、ひっくり返して捨てる場所。)に、骨がいっぱいあった。大きな穴の下に朝鮮人の骨があって、骨に コンクリか鉄板の覆いがしてあって、その上にコークスを捨てたのを見た。人の話だと、桜本三丁目(池上町)に死体の焼き場があった。焼いたのは朝鮮人。そこで焼かれて、骨を捨てたということです。戦争中朝鮮人に焼かしたり、捨てさせたりしたと聞いています。空襲などで死んだりした人の分も焼いたそうです。
□ 池上座り込み闘争
昭和30何年。ノロの捨て場にトロッコを倒して空けて、捨てたところに雨が降って、爆発しました。爆発してノロが散乱し、落ちてきてあちこちに火事が起きました。その時は議員になってすぐの時です。金木議員といっしょでした。線路にむしろを敷いて座り込みをしました。300人くらい集まりました。日本の人もいました。ノロを運ばせないように座り込み、その結果、鋼管の敷地内をトロッコが通るように軌道修正させました。
引込み線は何回も爆発しました。7〜8箇所火事になったが、早く家を建てちゃえって、鋼管の土地だから、立ち退かされないよう、役員が来る前に 組合の役員やシンパが協力した。爆発する前。赤旗にものっていない。55年くらいに、ノロの捨て場を入江崎のほうへ移しました。
□ 入党
党員になったのは、59年(昭和34年) 座り込んだのは地域の方々と笠原と金木。会社に働いてたといき、共産党をやめろやめろといわれたが、まだ党員ではありませんでした。職場細胞。細胞長は鋼管の中に13〜4こあった。800人くらいいた。
59年入党。朝鮮人の活動家との付き合いはなし。市会議員になって、付き合いが多くなった。自宅の裏に金さんがいた。朝鮮学校の先生。あと湯村という朝鮮人。湯村さんは、共和国に引き上げました。杉山さんも(韓国人)帰国の運動をした人で、送別会などが多かった。
日本鋼管で共産党 池上新町入党10日目で、ビラ配り、公然活動。入党して3年くらいたって、飯島さんを元共産党員かもしれないと思うようになってきた。ちょっと赤旗もって働きかけました。議員になるだいぶ前の話です。池上新町に飯島さんが昭和31年に引越してきました。そのあと、中西功氏が再入党手続きを試みました。しかし身元調査でだめでした。
当時、秋葉さん市会議員が最高得票で選ばれました。私は、安保のころ借地借家人組合の県の方で理事をしていました。値上げ、追いたての相談、交渉が多かったです。
□ その他
池上町にはずいぶん人がいました。スクラップが多く、入るとぶた、犬が10匹ぐらい追いかけてきました。新聞赤旗配布は30軒くらいありました。
その後、総連になった時、朝鮮人は赤旗をとらなくなりました。
失対事業デモの激励もよくした。
警察が全部情報集めをしていた時代。自宅の裏に、杉山さんの家を間借りしたいから世話してほしいという人がいて、調べたら警察でした。警察に捕まった人を取り戻しにきていて、投石とかずいぶんありました。そのため、情報集めのために借りたかったのでした。池上町で密造して、まだ留置場にのこってるからだせと詰め掛けていました。サッカリンもありました。
どぶろくはドンぶりいっぱい30円 とんちゃん。藤崎クリニックの通りから池藤橋にかけて朝鮮人の屋台がありました。追っ払われて、塩浜へいきました。昭和23年ころ。朝鮮人の山下、山田、みんな共和国へ帰っていきました。それから、いろんなものがないから送ってくれっていうたよりが北からきていました。
桜本のボーリング場は朝鮮人が経営していました。
入江崎に朝鮮のキムチ、もやし、入江崎に2件ありました。浜町のほうから魚や、内臓売り、八百屋、がやってきました。燃料船の廃材。コークスを落としたものなどを弁当に隠して持って帰り燃料にしました。小さい木を燃やして、その上にコークスを乗っけて使いました。コークスをはこぶ下請け企業のなまえは日新企業。
昭和46年5月3日〜昭和62年5月2日の4期 市議会議員を務めました。
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