沖縄のひと  Part2 
沖縄の人ですか?ビオスの丘の遊覧船で隣合わせになった在日二世の方の一言で会話は始まりました。沖縄に来て22年になるけれど同じ日本でも故郷は別の地なのでなにかしら違和感を感じながら今日まで来ました。そんな私が外国から来た人の交流の場としてゆんたくサークルに居場所を見つけたのも自分の中にある寂しさにあると思います。彼女もまた、26年前に二世の人と結婚するために日本に来たそうで、日本で暮らし始める理由も苦労した経験も人それぞれなのだと思った。どこか通じるところがあったのか蘭の花もそっちのけで、取り留めのない話に花が咲きました。沖縄戦に関して通り一遍の知識しかなく、かといって在日の方が身近にいない環境にいていきなり分かるわけもないですが、まずは交流すること、素直な気持ちで相手の話を聞いて分かり合おうとする気持ちが大切なことだと感じました。今回、子連れで参加させてもらいましたが、子育ての中の私にできることは、いろいろな場に出かけて交流し学ぶことによって我が家の子供たちの視野が広がればと思っています。楽しい一時をありがとうございました。 (児玉和子)



私は私が生まれる前に「ハルモニ」はみんななくなって「ハルモニ」はどんな存在かどんな感じか分かっていません。友達からお祖母さんの話を聞いたら、まるで友達みたいで母から怒られた時、お祖母さんがかばってくれたり、甘やかされたりする話を聞いたら、仲良くてうらやましいなと思ったことはあります。ですが、「ハルモニ」の暖かさを一度も感じたことがない私にはやはり遠い存在でした。実際に今度こんなに良い機会があったのにも関わらす、どうやって話しかけたらいいのか、何の話をしたらいいのか全く分からなくてとまどいました。そんな私に先に話しかけてくれて隣の席に誘ってくれてうれしかったです。また、歴史についてよく知らない私は恥ずかしいと思いながらも、「まだ、若いから知らないのも当然よ。」と言ってくださってうれしいと思うか優しい心を感じられてすごく良かったです。また蚊に刺されてかいている私を見て「どうして早く言わなかったの?」と言いながら直接薬を何回も塗ってくださって感動しました。
薬をぬってくださった手も別れるとき「勉強頑張ってね」と言いながら抱いてくださったその温かさも一生忘れません。みなさんは別の意味の旅行だと思いますが、私にとっては「ハルモニ」の存在を感じられたいい時間でした。本当にありがとうございます。これからも元気でいられることを願っています。ゴンガンハセよ。                                                          (金玲児)
 
今回初めて在日韓国の方々と交流を持つことができて本当に貴重な経験をさせて頂ありがたく感じています。「在日韓国人」という言葉は日常生活の中では全く耳にすることもなく、時々ニュースで接する程度の遠い言葉だったので、正直なところどのように接してよいのかとまどいもありましたが。先の大戦で味わった苦しみや悲しみを日本人、沖縄人、在日韓国人、それぞれの立場から感じることができたようなとても複雑な感じを持ちました。この日本という同じ地にいながら多くの国の方々がそれぞれつらい思いをしてきたのかと思い深い悲しみを感じました。被害者、加害者の立場を超えて、それぞれに味わった悲しみを忘れずに平和のために手をとりあって仲良くしていきたいと強く感じました。           (山内由起子)
 
今回の交流で沖縄の戦争体験者と在日の戦争体験者の双方のお話を聞くことができたこと、また教科書に出てくる歴史とも有名人の書いた小説とも違う、その歴史を生きてきた「個人」のお話を聞くことができたことは本当に貴重な経験になりました。そしてこの交流会に参加していろいろな方と話しながら、沖縄という「場」にいることでこそ感じられる被害者としての記憶と、沖縄という「場」にいるから見えてこない加害者としての視点を持つことの大切さを改めて実感させられたように思います。
 今から12年ほど前に一度だけ「ふれあい館」の活動に参加させてもらったことがありました。その時はじめて「在日韓国人」という存在を知り、その後大学院のスタディツアーで韓国を訪れ、韓国における戦争の歴史を学び、加害者としての日本という視点をもつことを意識させられるようになりました。しかし今回「沖縄」という場でハルモニたちと共に過ごしながらこれまでとは違う想いがあふれてきました。同じ歴史の中の出来事であるはずなのに、「在日」と「沖縄」を別々の出来事としてしかとらえられていませんでした。しかし太平洋戦争という「時」と「出来事」について、60年前を生きてきたハルモニたちと沖縄の戦争体験者から、両方の視点にたった話を聞いた時はじめて、私自身の中で二つの歴史がシンクロしたような感覚になりました。これまで歴史の中の一つの出来事として頭で理解してきていたことが、この場を共有する事ではじめて体で感じることができたような気がしました。おそらくこれはハルモニたちと沖縄の戦争体験者、そして戦争の爪痕が残る「沖縄」という「場」が作り出す空気、この三つが生み出したものなのかもしれません。今でも心に焼き付きついている光景は恨の碑の前のハルモニたちの姿です。そのハルモニたちが「苦しかったでしょう」「口惜しかったでしょう」と泣きながら像を愛撫する姿があまりにも衝撃的だったからです。そして「かわいそうに、こんな所に入れられて・・」、「こんな場所しかなかったのか」という言葉に、わたし自身の言葉を失いました。というのも、このような小さな碑でも、碑があることで救われる人がいるのではいかと思っていた部分があるからです。しかし、ハルモニたちのあの涙を目にしたとき、彼らの、強制連行、無念の死、祖国に帰れなかった悔恨の念というものは想像を絶するものなのだろうと改めて気付かされ、正直なところその場から逃げ出したい衝動にかられました。そして、その彼女の口から同時に「このような碑を建ててくれてありがとう」と言われて手を握られたときにわたしは複雑な気持ちになったのです。それはわたしは恨の碑を立てる会の会員ではあるが中心になって活動しているわけではなく時々勉強会に参加する程度にしか過ぎないのにという気持ちから気が引けてしまったという部分もあるだろう。しかしそれだけではなく、ハルモニたちの沖縄で亡くなった同胞の死を嘆く想い、無念の死に対する恨み、そしてここに碑が建てられたことに対する「ありがとう」という言葉に、私は言葉では上手く表現できないが、彼女たちの歩んできた歴史の重さと想いの深さを感じたからです。後日、交流会に参加したメンバーから「ハルモニたちは何も話してくれませんでした」とか「ハルモニたちからは結局は何も聴けませんでした」という感想がありました。これは何か話してくれるだろうという期待と何か聞かなければならないという使命感、何か責められるかも知れないという緊張感をもって参加した私たちが感じる正直な感想だと思います。しかし読谷村のお祖母さんたちが「できれば口を開きたくもない」「一瞬たりとも思い出したくない」だと話していたように「話す」または「語る」という行為には、自分自身の葛藤や、相手との信頼関係、その場の状況がつくりだすきっかけなど様々な要因のからみあいがあるのではないだろうかということが話し合われました。そして私たちが今できることは、体験者に出会ったとき彼らの話にまず耳を傾けること、そして充分に対話をすることから始めるしかないのではないかということでした。
最後に、これは感想ではありませんが私が常に自問しつつも答えが見いだせないでいることについて少し書きたいと思います。それは私はどうしても「沖縄」を中心とした視点からしか話せないということです。今までもそうでしたが今回も漠然としながらも、沖縄だから理解できるだろう、ある程度の痛みを共有できる土壌がお互いにあるのではないか、沖縄も大変だったんだという思いでハルモニたちと向き合っていたように思います。はたしてそれでよかったのだろうかという疑問が浮かんできました。おなじ苦しみを抱えているはずだ、だから話しやすいはずだ、理解し合えるだろうという思い込みがかえってハルモニたちときちんと正面から向き合うこと、そして受け入れようとする心の動きを阻んでいるようにさえ感じられてしまいました。「沖縄」という「場」の持つ「歴史性」に甘えるだけではなく、今、私がここでできることを考えていかなければならない、そう強く感じました。                                                          (與那覇麻孔)
 
『沖縄の人々は被害者であるのと同時に、加害者でもあったのです』ハンの碑を訪れた際に聞いたこの言葉は、戦争において沖縄は被害者でしかないのだと考えていた私にとって、思いもしない言葉でした。戦争を直接知らない私にとって、ベースに囲まれた沖縄が私の現実であり、自分達は被害者なんだとそればかりに目を向け、沖縄の人々が加害者となり、それに対する被害者が存在するなど考えたこともありませんでした。しかし、在日韓国人の方々と一緒に行動していくうちに、これまでよく知りもせずに被害者ぶった態度ばかり取ってた自分が、正直恥ずかしくなりました。これからは被害者としての沖縄はもちろんのこと、加害者としての沖縄についてもっと知っていきたいと思いました。』                                            (翁長翔子)
 
在日の方とははじめていろいろ話をしました。とても明るくおしゃべりで、「あぁ、アジアってかんじだな」というのが第一印象です。初めて会う年上の方々なのに、すごく話しやすかったです。本土の人よりもウチナーンチュに近いかんじがしました。すると、話をした方も同じことを思っていたといいます。日ごろから被害者意識が強いため、二重差別の事実をつきつけられると胸が苦しくなります。今では想像もつかない生活を強いられていたはずなのに、なぜこの人たちはこんなにも明るいんだろうか。素直に感情を表現するし、手作りのおいしいキムチをすすめてくれ、アリランやトラジの歌や演奏をきかせてもらいました。日本の若者が韓国などのアジアの国へ旅行したときに、現地の方に向かって「おばあちゃん、日本語うまいですね。どこで習ったんですか」と言うと聞きます。とても恥ずかしく申し訳なく思います。日本が戦時中に近隣アジアの国でなにをしたかを、日本人はみんなが知っておかなければならない、そう強く思いました。                   (伊舎堂祐子) 
 
今回、在日一世や二世のハルモニたちと交流できるということを知り、なかなかできない貴重な体験なので参加することにしました。元々韓国に住んでいて日本に来た方もいましたが、最初から日本に住んでいる方もいました。在日ということもあって、いろいろ差別を受けてきたと思います。日本では法的にも正当な扱いを受けられないという現状もあります。在日という存在も、戦争によるものがほとんどです。これらのことを考えてしまい、なかなか彼女たちと話をすることが出来ませんでした。しかし、彼女たちは私に気軽に話しかけてきてくれましたし、そのおかげで私も少しは沖縄についてだとか、何でもない日常の生活を話すことができました。最初私は日本は加害者であり、それに対してハルモニたちが何を思っているのだろうとびくびくしていました。これは日本人と韓国人、在日の人と充分に対話していないからだと今振り返って思います。戦争のこと、日帝時代のことを様々な方向から見て話し合う必要があると思いました。そのような日韓に加えた沖縄、在日などのマイノリティ同士(日韓では埋もれてしまう存在)の交流をこれから増やしていかなければならない、と。ハルモニたちと出会い、一緒に平和学習をすることで、私も沖縄がしてきた経験を韓国人に伝え、話し合っていきたいと思うようになった。                           (本村恵美)
 
同じ日本にやってきて日本人と交わって生活をしているけれども日本に来られた理由は全く違っていました。私は高校の時、第二外国語として日本語という言語を学び始めてからなぜか日本への憧れがあって留学を決心して来ました。そして、多くの日本人にも親切にしてもらって日本での留学生活を楽しく過ごしています。
最近は韓流ブームのお陰で韓国人に対する日本人の関心度も高くなって、韓国人だと誇りをもって言っています。しかし、私とは違ってハルモニの日本での生活は苦しかったようです。在日韓国人との交流は初めてだったので、どんな生活をしていたのかは知りませんでした。戦争が終わって韓国は日本から解放されたけど在日韓国人にとっては自由を得たとは言えなかったんじゃないかなと思いました。私には解らない事なので頭では理解出来るけど、その苦しみが解るとは言えません。韓国語を教えるため子供を韓国人学校へ行かしたと言うハルモニ、自分が日本人の学校に通っていて日本人に無視されたりいじめられた経験、その苦しみの思いを子供にさせたくないという想いもあったのではないかなと思いました。沖縄に来る前おばあちゃんは<日本人は悪いから気をつけてね>とか<日本人と付き合うな>とか言いました、そして日本で日本人と交わって生活をしているハルモニ達も子供の結婚は絶対韓国人とさせると言いました。その話を聞いたとき日本で暮らしているハルモニ達も日本にされたことを忘れることは出来なかったみたいでした。韓国にいるおばあちゃん達は日本人との交わりことなんかないし靖国参拝などの悪いことばかり耳にしているから日本人に対する違和感を持っていることは理解していましたが、在日韓国人のハルモニたちも同じように言った事には驚きました。韓国にいるおばあちゃん達と同じように日本人に違和感を持っているか日本それよりも国とは離れてはいるけれど韓国人として生きて行くことを大切にしようとする意志が強いかは解りませんでした。今度ハルモニ達と恨の碑に行ったとき私はハルモニ達が感じているほどの悲しみはなかったです。頭で理解している歴史、その中の苦しみや辛さを心から理解していくというのは経験してない私には出来ないことでした。今度在日韓国人との交流を通して私は同じ韓国人でありながら同じ歴史の証拠をみても共感出来ないところがあるということや同じ日本で暮らししているけど韓国に対する気持ちもまた違うんだろうなと思いました。日本人と結婚したいなと言い出した私にそういうことは韓国に帰れない事になるんだよ。と言ったおばさんがいましたけど、その時私は良いんですよと答えました。韓国に対する気持ちもこんなに違うことに気づきました。              李 恩 玉(イ ウン オク)
 
 
交流会に参加した学生の一人に、韓国への留学を終えて帰国したばかりの学生がいました。この学生はこの交流会に参加したことをきっかけに、在日の歴史についてもっと学び、通訳という仕事を通して在日の歴史や平和の大切さについて語り継いでいきたいという目標を見つけ、もう一度韓国に留学することを決意したようです。ハルモニたちやトラジの会で活動しているみなさんに会えたことが、彼女の心の中にある何かを動かすことになったのだと思います。それは自分の国、心、体、自由、言葉の全てを奪われた、その奪われた苦しさから生まれたハルモニたちの力が彼女の心を動かしたのではないかと改めて感じました。
後日ハルモニからみかんを送ってもらった韓国人留学生や結婚相手を紹介してもらうことになった留学生もいたようです・・。今回参加した韓国人留学生は年齢的にも若い世代のため今まで在日の人に会ったこともなく、在日という存在は自分とかけ離れた遠い世界の事だと思っていたようです。参加した3人の留学生は初めて在日の方と出会い、いろいろな話ができ本当に良い経験になったと話していました。
沖縄から参加したメンバー同士もほとんどが初対面でしたが、この交流会をきっかけに沖縄でも新しい関係ができあがりました。そして一度みんなでふれあい館を訪ねてみようという声も揚がっています。できるだけ早くみなさんとお会いできたらと思います。本当にありがとうございました。