気がついたら木々がすっかり茶色になって、落ち葉を踏まずには銀杏並木を通れないことに、ふと気づきました。ほんの一週間前間まで、緑まぶしい沖縄にいたのに・・・と思うと、妙に懐かしくなります。
一週間前、厳密に言うと11月22日から、24日まで。私は川崎の在日韓国・朝鮮人一世のはんめ(おばあちゃん)達と一緒に、沖縄へ行っていました。はんめ達が、沖縄の「おばあ」と交流し、ガマ(防空壕)などの戦争体験を聞く旅についていったのです。
戦前から続く差別体験を、彼女たちがどのように共有するのだろう。そこに何が生まれるのだろう。それが見てみたくて、気がついたら参加のお願いをしていました。・・・ただ、あったかい沖縄に行きたかったという説もあるけれど・・・。
★はじめてあった「はんめ」達
羽田の待ち合わせ場所で、はんめ達と会いました。最初は、「はじめまして」と、「よろしくおねがいします」しか言えなかった。
なにも考えないで、なんにも知らないで来てしまった。はんめ達を見て、初めてそう思った。そして、自分がどういう存在でいればいいんだろうって、思った。
でも、そんなのお構いなしのはんめ達は、いい意味で私を空気のように当たり前に迎えてくれました。飛行機の中でも、たくさんおもちやら、おすしやらをおすそ分けしてもらって、となりのはんめに寄りかかって寝てしまっていた私。おかげで仲良くなれました。
★首里城でのこと
あいにくの天気の中、首里城へ行って昼食をとりました。隣のはんめが90才を超えるのに、沖縄そばとか混ぜご飯を普通に食べていることに、失礼ながら驚きました。この手の驚きを、旅の中で何度も体験するようになるのですが・・・。私のイメージで、お年寄りってご飯とか食べられなかったり、「ご飯はやわらかくなきゃ食べられない」とか、そういう問題があると思ってたんですね。
ご飯を食べているときから、窓の外はひどい雨。しかも、斜めにふっているんです。沖縄の嵐体験、っていう気分。
そんな中だけど、せっかくだからと、希望者だけ首里城見学。10人くらいのはんめと一緒に坂道を上って見学しました。
★バスの中で
ここらでまとめて、沖縄での移動中の話をしておきましょう。移動中のバスでは、大体皆同じ様な場所に座っていました。はんめ達の中には、大体仲良しグループが存在しているみたいで(余談ですが、はんめ達と生活するのって基本的に、高校生の女の子といるのと変わらない気分。変な話、首里城でも、高校生なら「だるいからパス」っていうのと同じくらいの割合で、「足が痛いからパス」っていうはんめがいた気がする。もう少し言うと、話題が年金とか、介護保険の話になったりするのも違いかな)
話をもとに戻します。バスの中では、皆寝てたり、とりとめもないおしゃべりをしてたり・・・。です。私はバスの中では、新聞記者さんとおしゃべりもしました。やっぱり記者さんはプロフェッショナルで、記事を書く難しさとか、そういったことを私に向き合って話してくれて、すごい勉強になりました。こうやって社会に出てる人と触れてると、大人になるのも悪くないなぁって感じます。
あと、2世の女の人とも仲良くしてもらいました。家族の話とか、トラヂの会の話とか、たくさん聞けました。
★交流会にて
さて、旅行の目玉とも言える交流会。ですが、大変でした。交流場所が停電してたんです。それだけすごい雨だったんですね。バスも、泥水の中を進みます。いったんホテルに行ってから、再び交流会になりました。最初は暗闇の中で始まった交流会も、途中で電気が復旧して、無事に滑り出します。沖縄のおばあ達の話、はんめの話。その場にいなきゃ感じられない強さが、そこにはありました。
交流会の趣旨も私なりにまとめてみますね。おそらく2点のことが含まれているのだと思います。
ひとつは、はんめ達が自分自身を肯定的に見直すため。在日韓国朝鮮人の1世の人たちは、自分の辛い境遇は自分が引き起こしたものだと考えてしまうそうです。それを、語ることによって、語られることによって、「そうじゃなかったんだ。自分だけじゃないし、自分のせいじゃなかったんだ」って思える。苦労を共感できる。さらに、この共感は、民族の垣根など関係ありません。沖縄の人も、同じような思いをきっと抱いているでしょう。っということです。
二つ目は、アイデンティティの継承。在日の人たちは、自分達のつらい過去を語ることの意味を、見出せずにいました。ずっと差別を受けてきた人たちにとって、それは自然なことなのでしょう。でも、今、在日の2世、3世のことを考える中で、1世の方の歴史は欠かせません。コミュニティーのアイデンティティを保つためにも、次の世代のためにも、自分達の経験を話してほしいという意図があったのです。
沖縄では、沖縄戦の記憶を残し、発信しています。ここから学び、さらに戦争によって一番弱い立場の人が傷つくんだということを、共感したいという狙いがあったのでしょう。
また前置きが長くなりました。沖縄のおばあの話から、簡単に書いていきます。
知花昌一さんのおばさんは、「思い出したくもないね。思い出すと、胸もドキドキ。なにから話していいか」って何度も言っていました。青春時代が無かった怒り。占領され収容されたアメリカ軍に、さらに雇われなければ生きていけなかった悔しさ。私に、おばあが話してくれた景色など、想像できるはずが無い。どんな空想をしても、私には、においも、痛みも分からない。それが事実。戦争体験者の話を聞くたびに痛感する、限界。だけど、直接心に響く「戦争はひどいね」っていう言葉を、しっかり、できるだけしっかり、受け止めたいと、いつも思うんだ。
「上になった政治家、言うだけ。国民は寄せて集められて・・・。話し合いでできないかね。本当にひどいね。話したくもないくらいだね」
彫刻家の金城さんは、「軍隊が国を守るなんて理屈はここでは通用しない」「軍隊があることを沖縄の人が感謝するだろうなんていう発言、ぶん殴ってやろうかと思った」といっていました。彼の島の人間は「ねずみのように穴に隠れていた」が、誰も死ななかった。それは日本軍がいなかったからだといいます。
そして、川崎にしろ、沖縄にしろ、国に対して文句が言えないような学校教育について言及し、民間での交流で食い止めよう、と話を結んでいました。
川崎のはんめからは、ノ・マルナムさんが話をしてくれました。その日一日、物静かで、微笑を絶やさない姿しか見ていなかったから、話始めたマルナムさんを見て、鳥肌が立ちました。それほどに、伝えたい思いがぎゅってつまったメッセージだったのです。なぜ在日の人が今日本にいるのか、それは日本軍が土地を取り上げていったから。そして、家族を養えるかもしれないというわずかな期待を抱いてやってきた朝鮮の人が、多く危険な仕事で「日本の土になった」ことを話していました。
おばあと同じく「昔のこと考えると胸がいっぱい」といっていました。「今の若い人にわかるはずがない」「朝鮮人のことが日本人に理解されているか疑問。自ら心を改めて知ってほしい」としめくくりました。
私はマルナムさんの話に強く共感しています。戦中、戦後、多くの人が差別意識を抱いていたはずです。それを誰か、自分のこととして深く反省したでしょうか。そのような話を聞いたことはありません。多くの日本人が「しょうがなかった」で、自分の意思とはまったく無縁だったように済ませてしまっているのではないでしょうか。戦争責任にしても。これは、「日本人」にとって克服すべき課題なのだと、私は思っているのです。
その後、長く続く自己紹介は、抑圧されていたはんめ達の「話したかった、分かってほしい」という思いを映し出していたように思います。
★交流会の宴
おばあとはんめ、お互いの語りが終わって、夕食。バイキング形式だったから、同じテーブルのはんめの分も適当に持っていくと、はんめ達はさっそくビールや泡盛をあけていました。豚足がたくさんあって、沖縄に来たことを実感。
食べ終わると、チャンゴとサンシンで歌って踊って・・・という謳い文句の通り、皆歌って踊って・・・。「トラヂ」や「アリラン」を何度も歌っていました。私にとっては、なじみがないものだったが、帰る頃には、なんかはんめ達がトラヂやアリランを歌ってる、その景色が、すごく、愛しくなっていました。独特の強さと、あったかさがある気がしたのです。
舞台の上での、はんめ達のフラダンス。はにかみながらも、堂々と踊るはんめ達。そして、その後は立ち上がって沖縄の踊り、そして、皆思うままに、それぞれのリズムで踊っていました。私も、知花さんの息子さんに誘われて踊ってみたんだけど、そういうことって、考えたらしたことがないんですよね。ぎこちなくて、自分で恥ずかしいくらい。
自然に体を動かしているはんめ達や、沖縄のおばあ。私は、自然に体を動かして、なにかを表現して・・・っていう環境で育ってないんだなぁって思いました。
もちろん中には、少し踊って、恥ずかしくなって、席に戻ってまた連れてこられる・・・っていうはんめもいました。私と同類。でも、そういうはんめ達のやり取りもまた、あったかいものでした。皆、楽しそうに踊って、飲んだ夜でした。
最後には、沖縄のおばあと、川崎のはんめが「また会いましょうね」といっていました。
沖縄の人から朝鮮人への差別もあったという話も聞いていたので、今はどうなのだろうって、思っていたけれど、彼らは植え付けられた差別の意識なんて、既に克服していたのです。
川崎と沖縄。つなげていたのは「日本人らしさ」を押し付けられた存在であることなのだということを、翌日に私は気づいたのです。
11月23日
★グスクを歩いて
雨が何とか上がってる・・・っていう感じの空の下、最初に行ったのはグスクでした。一緒に琉球大学の生徒もいてくれて、ちょっぴり嬉しい。皆それぞれのあゆみで、グスクに上って、知花さんの話を聞きました。2日目の疲れから、車椅子争奪戦もちらほら見受けられます。私は、1日目から車椅子の扱いがよくわからなくて、見よう見真似。いざ押してみると、すごく重くて、大変な作業。これをはんめ達がやってたなんて・・・。
さて、本筋にもどって・・。
沖縄は、日本の本土決戦を遅らせるための捨石だったということを、知花さんが話してくれました。しかも、手を上げて出て行けば死なずにすんだのに「最後の一兵まで戦え」という言葉の元に、沖縄の戦争は9月まで続いたというのです。
グスクで、なんか変な生き物が鳴いてるなぁって思って、琉球大学の先生に聞いたら、「生徒かと思ったわよ~。なにいってるの?って怒ろうとしちゃった」って言われました。これ、沖縄のセミだったんですね。こっちのセミより、図太く鳴いていました。
また話がそれてしまいました。行ったり来たりの私の話はまだ二日目の午前中。どうか呆れずにお付き合いくださいね。
バスの中で、知花さんが高校のころに米軍パラシュートをたたむアルバイトをしていたという話をしてくれました。その時代の沖縄ならではのアルバイト。それだけアメリカ軍が生活に浸透している。そのことのエピソードの一つなのだと思います。
旅行の1週間ほど前、沖縄の米軍基地で竜巻があったんです。それをニュースで見た私は、本当に驚きました。地域の住民が「爆弾が飛んできたのかと思った。戦争かと思った」ってテレビのインタビューで話してた。沖縄って、どれだけ緊張した日々を送っているんだろうってそのときも思ったけど、この知花さんのお話のときも、複雑な気分になりました。
バスの中では、琉球大学の学生さんと、「沖縄の人って、水着着ないんですよね~。逆に恥ずかしいのと、やけたくないのと」とか、「沖縄の人って、「日本人」意識はあるんですか?」とか、「お勧めの泡盛を教えてください」とか、「沖縄って修学旅行ないんですよ~。」とか、そんな話をしていました。
★チビチリガマへ
チビチリガマは、沖縄戦で「集団自決」とよばれる悲劇が起きた場所です。米軍上陸当時、日本兵は出て行って戦わずに、隠れて沖縄戦を長引かせる覚悟だったので、沖縄の住民達は、避難のために自然の洞窟のような場所に隠れていたのです。チビチリガマは、長い人で20日程過ごしているそうです。
読谷村にあるもう一つの大きなガマ、シムクガマには、ハワイ帰りの英語ができる日本人がいたので、アメリカ兵と交渉ができ、誰も死ぬことなく、暗いガマから外に出られたというガマです。
しかし、チビチリガマには、中国帰りの看護婦がいたそうです。軍隊の醜さを知っていた。さらに当時の日本人は、皆アメリカ人を鬼だと教え込まれていた。そう信じていた。これが、彼らの悲劇を理解するための大前提。ここで一緒に、知花さんの言葉を紹介しておきますね。
当時の日本や沖縄では、皇民化教育が行われていました。それは、一つの価値観しか認めないもの・・・。その価値観にそぐわない、沖縄の人、朝鮮の人、アイヌの人、台湾の人、皆差別を受けました。その差別をなくすためにはどうすればいいか?日本人以上に、日本に協力することを、沖縄の人は選びました。沖縄の人たちは、短期間の間に、民間の人から、学校の先生から、役員から、マスコミから、国策である戦争に協力したんです。差別されないために。この沖縄の人たちの態度は「動物的忠誠心」とまでよばれたそうです。
チビチリガマの話に戻ります。米軍上陸一日目。「竹やりで戦え」の訓示どおり、中にいた2人のお年寄りの男性と娘達が、竹やりをもって出て行ったところ、手榴弾で吹き飛ばされました。2日目、アメリカ軍が出て来いというビラを持ってきました。でも、当時の沖縄、「出て行ったら女は強姦されて殺される。男は生きたまま戦車にひき潰されて殺される」と信じていました。誰も米軍の言うことを信じません。
アメリカ兵がいよいよ入ってくるとき、中は「鬼が来る」とパニック状態になりました。ひとりの女の子が「お母さん。私を殺して」と、包丁を首に押し当てます。母親も、「かわいい娘が鬼の手に渡るならいっそ・・・」と、その包丁に力をこめました。これが引き金になって、中では首の切り合いになりました。男の人が兵隊にとられていたので、ガマの中では、お母さんが一番の権力を持っていました。お母さんが、なによりかわいい自分の子ども達を、殺していったのです。
それは、「自決」じゃありません。小さな子どもを母親が殺していったのです。知花さんは聞いたそうです。「どんな動物でも子どもを守るのに、どうしてそんなことができたんだ」と。この問い自体、どれだけ辛いものでしょうか。おばあは答えたそうです。「あんた達にはわからんだろうけど、そういう教えだった」
また、知花さんは聞いたそうです。「なぜあんたは生き残ったのさ」おばあは皆答えます。「死のうと思ったさ。でも、できなかったさ」
どんなに死のうと思っても、首を切って、苦しんで死んでいくのを見ていた人たちは、「アメリカの弾でもいい。楽に死にたい」と、死ぬために外に飛び出した。でも、アメリカの人たちは殺さなかった。死のうと思って出て行った人たちだけが、助かったのです。そう、皆助かったのに・・・。そのときの教育に縛られていた頭が、彼女達の逃げ場を奪ったのです。助かったのに。追い込まれて、生きる道なんてどこにもないって信じて、自分の命を奪う決断しかなかった。それは「決断」と呼ぶにはあまりに追い詰められた、「集団強制死」でした。
強制したのはだれか?直接殺した母親?母親は、殺すことが愛情だとしか思えなかった・・・。そこまで愛の形をゆがめられた。何によって?・・・母親に逃げ場などないと思わせたのは、かわいいからこそ子どもを殺さなきゃと思わせたのは、日本の教育。日本の教育は、誰かに死を強制したという歴史がある。このことを、忘れちゃいけない。
一度壊されたガマの前の彫刻は、人の形をした苦しみが渦巻いているもので・・・。あまりに悲しいものでした。
繰り返しますが、彼女達は、生きるためにガマに逃げていったんです。そこでなぜ、死を選ぶに至らねばならなかったのでしょう。生き残ったおばあは言います。「出て行って助かるなら、分かってれば、誰も死なずにすんだのにねぇ」
お昼ご飯を食べた後は、韓国朝鮮人の人が強制労働させられていた海岸へ。特攻艇を隠す穴掘りをさせられていたそうです。どれだけの人数の人が強制労働されていたかさえ、しっかりと分かっていません。日本語が分からないから秘密が守れる、と、都合よく使い捨てられたのは、それぞれ人格も違う、大事な人もいる、一人の人間達。辛くて、沖縄から川崎まで逃げた人もいるそうです。
琉球大学の先生が言いました。「沖縄には、かわいそうなイメージがあるけれど、沖縄にも加害者の側面があるんだ」と。
この視点を、もっともっと広げていく必要があるんだと、私はまたしても感じました。差別されていたからこそ、別の被差別者への共感が生まれる。でも、差別されていなければ、差別されていた人の痛みがわからないのでしょうか?心で共感できる部分は少ないかもしれないけど、そこを乗り越えないと。もっと乗り越えないと・・・。
★「恨の碑」へ
これは、民間のカンパで作った、韓国朝鮮人の人たちが、沖縄でも多く強制労働に従事させられ、命を落としたことを忘れないための碑。民家の裏庭みたいなところにあるそれには、目隠しされ、日本兵に銃で殴られる韓国朝鮮人が描かれていました。同時に、詩がつづられていて、その最後の部分は「明日のために」的なものでした。なぜ「恨」なのか。「ハンノヒ」という音だけ聞いているときは、「韓の碑」かと思っていました。
一緒にいた方にそう話してみると、「これが明るい?」と逆に聞き返されてしまい、私は少し混乱状態。過去のための過去のものなら、形にする必要がないじゃないかと思いました。未来につなぎたいからこそ、残してあるんじゃないか・・・。でも、韓国の文化では、「恨」の感情というのは、上塗りされて消えるものではないんだそうです。そこに、それはそれとしてずっとある。そういうものなんだそうです。
ホテルに戻って、琉球大学の学生さん達とお別れ。なぜか私まで「また会いましょうね~」とはんめに言われる羽目に・・・。この子はは明日も一緒ですよって。別のはんめがフォローしてくれました。
★ホテルでの話
重い話が続いて、読んでいて疲れてきていることでしょう。私のホテルでの生活について、書いておきましょう。一緒のお部屋は、はんめが2人。日本人のボランティアの人が1人。それに私。
はんめ達はそれぞれいろいろな話をしてくれて、そういう細かいことも書きたいのですが、もうだいぶ長くなっているので、しぼっていくつかのエピソードを紹介しましょう。
1, はんめ達との話題
はんめ達は、年金の話とか、お孫さんの話とか、昔話が、自然に湧いて出てきます。
あるはんめは、昼夜働き詰めて、でも子ども達をしっかり大学まで出したすごいはんめ。これは皆に共通することだけど、「昔頑張ったから、今年金で楽しい生活ができる」っていう考え方。「昔の頑張り」だって、私からすれば考えられないほどの重労働。はんめって、本当に時代を潜り抜けてきた強さがある。
2,オートロック
ホテルの扉は、オートロック。開け閉めも普通のドアとちょっと違うし、扉になにか挟んでおかないと、締め出し必至の状況。大体うまくいっていたんだけど、ちょっと時間があわなくて、一回フロントに電話しました。「締め出されちゃったんで、鍵がほしいんです」っという私に「ちょっとお待ちください」と、冷ややかな声のお姉さん。それもそのはず、鍵を開けるためのサインのところには、「トラヂの会」という文字が躍っている。それも5,6個。お姉さんの冷ややかな声に納得しつつ、笑ってしまいました。
3,はんめと焼肉
2日目の夜は、部屋のはんめ達と焼肉バイキング。「はんめ、本当に焼肉で大丈夫」と、何度も聞きなおしていた私。2日じゃはんめ達のパワーを見切れなかった。
焼肉をもりもり食べる。ビールもどんどん飲む。それに、私が肉をとりに行こうとするときには、もう新しい肉を持ってきているはんめ。脱帽しました。普段はお酒をあんまり飲まない私も、この2泊3日、たくさんお酒を飲みました。
2日目の夜は、1時くらいまでとりとめの無い、楽しいおしゃべりをしてすごしました。
11月24日
★平和記念公園と、韓国の碑
最終日、かんかん照り、夏の沖縄。最初に向かったのは、南部の平和記念公園。そこで、遠くにある韓国朝鮮人犠牲者の礎の存在を説明してもらったあと、向かいにある、韓国が公式に作った碑に行った。
それは、「恨の碑」より、行きやすく、大きいものでした。私がそこで考えたことは二つあります。一つは、日本人がどれだけここを見るのかということ。もう一つは、韓国からの寄せ書きについてです。
まず、日本人がどれだけここにくるのだろう。という疑問からです。おそらく、多くの人は平和記念公園だけ見るでしょう。同じ民族の人が、自分の民族、国の歴史を知ることにはどういう意味があるのか、改めて考えました。
きっと、まずは自分に近いところから知る。それでいいんだと思うんです。自分の民族のことを知るのは、自分が何者か知る上でも、大事なこと。だけど、それは、交流をするためにも知るという側面があることを忘れてはいけないと思います。
日本人が、韓国朝鮮人からの視点を知らない時、自分の民族からの視点を、お互いに話すことで交流が生まれるはずなのに、最近は、「なんで知らないんだ」「なんでそういうことを言うんだ」と、話す前からけんか腰の状況が見受けられます。
そうではなくて、そこでお互いにものの見方が違うんだということを確認して、架け橋を作っていくべきなのに、と思うのです。
二つ目の話をします。碑の隣に、ハングルで書かれた寄せ書きも、石に刻まれていました。その文章をはんめに読んでもらうと、
「国のために死んだあなた達を尊敬します」
「今の私達がいるのは、あなた達のおかげです」
「韓国人は強い」「韓国万歳」「愛国心を持ちます」「平和を守ります」
など、さまざまな言葉が見受けられました。
死者に対して「あなた達の死を無駄にしません」というのは、日本人にとっても靖国神社をはじめとして、典型的な感情です。
そして、これまた日本人にも同じ現象が見受けられるのですが、その死者への想いから「あなた達が守ってくれた国を、戦ってでも守ります」という「愛国」と、「繰り返さない」という「平和」の二つの感情が出てくるのです。ここには、考えなければならない問題が山積みになっているなと、感じました。
同じ戦争という境遇におかれた人々の体験は、国境や民族を越えうるのに、それを継承していく過程で、国境や、民族の壁ができていきます。これをしっかり見つめていかなければいけないなと思いました。
★国際通り
やってまいりました国際通り。まずは市場でお食事・・・だけど、すごい人だから、一緒に行動するだけでも一苦労。それでも公設市場でご飯を食べました。
みんないろいろ注文していたけれど、どれも格安、山盛り。私も2人前ぐらいあろうかというどんぶりを平らげてしまいました。もちろんはんめ達も、もりもりいろんなものを食べていました。カツ丼とか、刺身とか・・・。
そして寒い東京へ
はんめ達、この日1日、帰ることを見越して、あの暑い日差しの中、既に長袖を着ていた人も多くいました。あっという間の3日間。東京に帰ったら、温度差15度くらいありました。こんな温度差体験もして、長い飛行機も乗って。私もくたくたに疲れていました。はんめ達は、もっと疲れたのかなぁ、とか、意外とはんめ達は、私より元気かも・・とか考えながら、解散のときを迎えました。
はんめ達。私のことを「孫みたいだ」といってくれて、私自身、おばあちゃんが増えたみたいな気分になりました。
はんめにとって、沖縄での交流や、体験がどういう実を結んでいるのかなって、これを書きながら想像しています。きっと私とは感じ方がぜんぜん違うはずで、そういうことをもっともっと聞いてみたいなって、今、思っています。
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