恨 之 碑 
 韓国から沖縄に動員・従軍させられ、沖縄戦に巻き込まれながらも、九死に一生を得て帰国することのできた、元朝鮮人軍夫二人のよびかけにより、無念の死を遂げ、遺骨の帰郷すら叶わなかった同胞を追悼・記念するために建立された碑。

 「沖縄に数千人から数万人が強制連行されたといわれる朝鮮人軍夫の存在と悲劇は、今なお闇に埋もれたままである。彼らは丸腰のまま敵襲にさらされ、満足に食糧も与えらえれないまま、港湾荷役や武器、軍需物資の運搬、掩蔽壕掘りなどに従軍させられた。その中で多くが戦死し、餓死し、さらに「スパイ」「軍紀違反」の名目で日本軍に処刑される者すらいた。しかしこのような事実は公式の記録にはほとんど残されていない。日本政府は朝鮮半島から沖縄戦に何人動員し、何人死傷させたのか、誰が戦没し、誰が生還したのか、これらの事実を明らかにしていない。」(沖縄タイムス掲載、平良修『韓国と沖縄に「恨の碑」を』より)

 韓国慶尚北道(沖縄へ連行された朝鮮人軍夫の多かった地区)出身で、無事帰還できた姜仁昌さん、徐正福さんたちの「今も異郷でさまよう犠牲者たちの遺骨を故国に持ち帰り手厚く弔いたい。そのために、日本の心ある人々の支援をお願いする」との申し出を受けて、まず、遺骨調査が行われた。(1997年)多くの人が協力して、二人の記憶に残る場所を中心に行われた遺骨調査では、もはや遺骨はその場所には存在せず、遺骨収集という願いは叶わなかった。
 このことを受けて、韓国と沖縄に追悼と祈念の碑をという計画がもちあがり、双方でその実現を目指すこととなった。沖縄では、「恨之碑建立をめざす会」が設立され、50余名
の呼びかけ人(知花昌一さんもそのひとり)が中心となって、基金集め、設置場所の選
定、碑の制作などに当たった。特に、碑の制作は、あのチビチリガマ入り口に作られた
「世代を結ぶ平和の像」の製作者・金城實氏が引受け、読谷村瀬名波の「恨之碑」韓国・日本双方の意見交換後、レリーフのデザインが決定された。
このようにして、韓国・日本の多くの人の想いと努力が実を結んで、韓国慶尚北道英陽郡での建立から7年後の2006年5月、読谷村瀬名波に日本側の碑が建てられた。

 「恨之碑」設立の中核として活躍した沖縄の人々は、碑の設立によって、『歴史の教訓に学び、沖縄から平和を呼びかけ続ける』という地点に立てたと考えている。今後、アジア太平洋戦争、そして沖縄戦の実相を明らかにしていくことを通して学び、行動し、沖縄は二度と被害者にも加害者にもならないとの想いを強くしている。      (鈴木)

 韓国人慰霊之塔
朝鮮半島から沖縄に連れて来られ、沖縄戦で死んでいった韓国人の霊を祀るために、糸満市摩文仁の平和記念公園の一角に、1975年建立された塔。韓国の墓のように丸く積みあげられた石塚の周りには、韓国各道から集められた石が並べらている。塚の前には故国・韓国の方向を示す矢印がある。碑には次のような文が刻まれている。 
 
 沖縄本島には多くの碑があるが、その碑文中に「虐殺」の文字が刻まれているのは、この碑文だけである。日本の侵略戦争によって、数々の残虐的な行為を受けてきた朝鮮の人々にとっては当然の内容といえるだろう。
 この塔が韓国の墓と同じ土饅頭のかたちをしていたからだろうか、母国の各道の石が並べられていたからだろうか、ハルモニたちの多くが、塔を撫で「アイゴー」と声を掛けながら
 「アリラン アリラン」「トラヂトラヂ」と塔に眠る魂に向かって歌っていた。  (鈴木)