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飯島善蔵さんは、戦後レットパージにあい(共産主義者を追放する政策)群馬を追われ、川崎の入江崎の飯場(朝鮮部落)に間借りし、朝鮮のおじさん、おばさんにたいへんお世話になりました。どぶろくも随分うれしかったそうです。ノロといわれる鉄鉱石を積んだトラックの運転手が、通りすがりに、極貧の生活する人たちに、わざと車体のハンドルを切って、ノロを落としてくれたりしたそうです。そのノロは、お金にかわって、人々の暮らしを支えました。旧正月などは、朝鮮の家々でご馳走が並び、にぎやかなパレードが行われました。日朝協会の入江崎支部長に推薦され、立ち退き問題などで交渉の全面に立ったりしましたが、いっしょに活動した人たちは、共和国に帰って、どうなったかはわかりません。
何もない中を生き抜くため、鉄くずやスクラップ集め、どぶろく作りなど、雑業的な仕事で命をつなぎました。「朝鮮人に家を貸したらめちゃくちゃにされる」 家内作業が多い生活実態もあり、追い出されない家を確保するため、工場の敷地、かつての朝鮮人飯場を延長して、道路にへばりつくように沼地にバラックを建てて住み始めました。雨が降ると、家の家具が浮かび、それを称して「あひる長屋」と呼ばれたりしました。現在の池上町の走りです
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入船部落 |
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農楽隊 |
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池上町 |
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